2009/11/20

愛と憎しみの海

9月末に見たオリヴィエ・ピィの『Les Enfants de Saturne サトゥルヌスの子供たち』。

パリ17区、アトリエ・ベルティエならではの演出。
アポカリプスと言いながらも、いつもながらのファンタスティックな様相を帯びたピィ演劇が、”360°回転座席”で見られる。

場面が変わるごとに暗転したり幕が下りたりするわけではなく、すでにセットされている背景に俳優が移動するとともに、客席が回転し、われわれ観客の視線も自然に動くようになっているというわけだ。

別々の場所がひとところに表わされ、ある場所からある場所への移行はこちらの想像力によって補われる(はず)、という中世フランスの併置舞台のようであるが、勝手に座席が動いてくれるご時世、この提案の面白さは科学の進歩と観客の怠惰さにちょっぴり負けている気もする。

とはいえ、舞台と客席の関係の分かりやすく大がかりな転覆は、演劇の歴史そのものを演出に織り込んでくるピィならではのアイディアだと言える。

周りはすでに舞台の海(クジラだって登場する)、入ってきたときの道はフィクションの波に呑まれ、現実の客席は漕ぎ出でた船のようにぷかぷかと漂っている。
目の前で繰り広げられる情景は、一家族の、そして個人個人の不幸が溶岩のように流れ出してそこここで爆発しているような、熱く苦しいものなのだが、われわれ観客は、涼しい顔でそれを観に来た無実の子羊である。

愛と悪夢のワンダーランド。

しかしながら、”わー。こんなにドロドロしちゃって大変な人たちだなー。”という醒めた姿勢で考えることを要求されない感じは、勝手に動く客席のせいだと思う。これは、ひとときの夢を見せてくれるピィ演劇だけになおのことである。テレビドラマでも見ているようなのだ。見終わったら、はい、おしまい。楽しかったね、という感じ。

もし、これが単に座布団のみを与えられていて、俳優がひとつの背景から別の背景へ移動したときに、自分で姿勢を変えなければならなかったとしたら、どうなるだろう?
オロオロするかもしれない、子羊らしく。
しかし、目の前で(あるいは後ろで)起きていることについていこうと必死になるだろう。
見る行為に対して自分に責任がかかってくる状況を作るということは、大事なのではないだろうか。

この責任感はEsa Kirkkopeltoの舞台に”参加”したときに味わった。
俳優たちがまだそこにはない舞台を、声と動作によってその場で作り上げていっているのを邪魔しないように、あちこち動き回るのが大変だった。
みんな困惑していた。

そうだ、もっと困らせて欲しいんだ。
舞台は夢ですよ、などとぬるまったるいこと言ってないで、現実に、真剣に、完膚なきまでに観客をうちのめして欲しいのだ。
そのくらいしないと、現代人のぼやけた頭は作動しない。

テクストについて言えば、インタビューでピィ自身が語った通り、これは非常に個人的な話という感じがする。信仰心、父・子の関係、それを揺るがす・それゆえの同性愛、近親相姦の欲望。
どこまでが自分に関わるもので、どこからが詩的飛躍かは知らないが、他人を締め出すような濃密な関係性がこのテクストを支配しているのは事実だ。
そのことには恐らく作者自身が気付いている。
というのも、救世主のようにふらりと現れ、ストーリーを展開させていく鍵となる人物、ヌールNour(光という意味)は外から来た者として、この家族を駆け抜け、悩めるウェルギリウスVirgile=サトゥルヌスの息子であるシモンの息子、つまりはこの終末的家族の被害者、を導くのだ。
ヌールは外から来た異邦人でありながら、シモンに対して客観的立場からヴェルギリウスを演じ、いわばウェルギリウスの影(むしろ光なのだが)として家族の内側に入っていく。

他人の苦痛を肩代わりすることを引き受け、自らの傷によってさらに光を増していくような人物である。

最後の場面で、ヌールがヴェルギリウスとともにクジラの背に乗って半裸で水を浴びている姿は、まったく何のことやらと思うほど輝いていた。
が、クジラに乗らずとも、彼の信仰心と詩情は十分に伝わったのにな、という気はする。
ヌールは現実とも空想ともつかない、人間が求める光そのものなのだということを表す、何か別の、一歩引いた表現がほしいラストだった。

すべてが足し算に足し算、といった具合で、溢れんばかりのピィの愛憎がつまった作品なのである。

2009/11/11

水面をゆらすのは何か

ピナ・バウシュが亡くなって4カ月。
初めてタンツテアターを目撃する。
今朝から出ていた微熱が吹っ飛んだ。
カタルシスを感じた。

見ているだけで感情が”浄化”されることなんてあるわけないと思うかもしれない。
音と、声と、身体とが、ただある状況の中で演じているのだったらそうかもしれない。
しかし、ここには偶然性と自然がある。
目の前で繰り広げられる光景に純粋に驚き、自然の作りだす瞬間的な美しさに目をみはる時、その世界の一部になってしまわない人間がいるのだろうか?

Vollmond(日本公演では『フルムーン』)は、2006年作。
舞台の右奥に、大きな岩がおかれてあり、途中からざんざんと舞台上に降ってくる雨で、その下には湖ができる。
はじめのうちこの湖はただそこにある。
ダンサーたちは空っぽのペットボトルを思い切り振り上げ、振り下げ、ふぉん、ふぉん、という音を鳴らしているだけ、空っぽのグラスは余興のための道具にすぎない。
しかし、時がたつにつれ、ダンサーたちはずるずると水にひきずりこまれていく。
ウェイターは手に持ったグラスから溢れるまで水を注ぎ、
口いっぱいに水をふくんだ男たちは、互いの顔にひっかけあい、
女性の頭のうえに空のコップをのせた男は、わざわざ離れて水鉄砲で撃ち落とす。

この親水力と同時に、ダンサー?俳優?たちの感情の解放も進んでいく。
笑う、叫ぶ、突っ走る、キスする、抱き合う、踊り狂う。
コミカルで日常的な動作は、徐々に速度を増し、日常を超えた異様な内部をさらしていく。
ひとつひとつの動作が何度も繰り返され、感情の解放の瞬間が観客の目に焼き付けられる。
観客の感情の解放は、段階的に、人工的になされる。
ひとつひとつ、スイッチを解除されていく感じがある。

やがて彼らは、一列にそろって水中を進み、すべての儀式が終了したかのように、水と戯れ始める。
黒い長髪の女性(背は小さいがタイ人もびっくりの手先の柔らかさ、とにかくエロチックでキュート)が水中で踊る様は圧巻としか言いようがない。
振り乱した髪についた水滴が、ライトを受けて、宙に光る孤を描く。
彼女の一挙手、一投足に水が弾け飛び、一瞬ごとに、異なるイメージが現れ、重なり、次々と消えていく。

自然は幾何学的に完全であり、人間は不完全である。
身体は非対称で、不透明で、生々しく鈍重で、内なる水に抗っている。
自然のままで自然ではいられない、人間の悲しさは美しい。
極限まで身体機能を高めたダンサーたちは人工的に自然に近付くけれども、水そのものには到達できないのである。
内なる自然と外部の自然との境界をなす皮膚につつまれた水分は燃えたぎって、今や溢れんばかりになっている。

観客が目にしているのは、この張りつめて震えている境界である。

この時、ほんものの水の力を借りて、水面下の世界は、すでに舞台に現れていると言えるのだろう。

いままで、何を見ていたんだろう。

総立ちの拍手に値するものは存在する。

2009/10/20

ひねくれテルジエフ

オデオン座にてC. シャレッティ演出の『ピロクテテス』。

Philoctète: Laurent Terzieff
Néoptolème: David Mambouch
Ulysse: Johan Leysen
etc.

広い舞台の額縁部分にバーンと一枚、銀板の幕が下りている。
筋がはいっているので、そのうちピロクテテスが岩山から出てくる頃に開くのだろうと思っていたら、最後の最後までそのままで、あと10分のところで、ヘラクレスが登場する時にようやく後ろへ向けて開かれた。(”神々しさ”はこれで演出されたと言えるのだろうか?)
パンフレットには、古代ギリシアさながらに”前舞台・オルケストラー・スケーネー”を分けて演じさせた”境界の悲劇tragédie du seuil”、などと書いてあるが、はっきりいって単につまらないだけのセノグラフィである。
いろんな人が寝ていた。寝ないけれども気持ちは分かる。

なにしろテルジエフに魅せられてしまっていたので、こちらは寝るどころではなかったが、その他の俳優にテクストを”言う”以外の演技が要求されていないため、えらく単調であった。

すべての年季のはいった観客がテルジエフのみのために集まっていると考えてもおかしくないような芝居だった。
それだけ他がつまらず、それだけテルジエフが素晴らしかった。
彼だけ別の空気を吸って生きている、というのがピロクテテスという役柄からのみならず、俳優そのものから匂い立っていた。
一人きりで生きてきた人間。純粋ゆえに奇妙にひねくれてしまった心。
枯れ木のような身体と病的な動きがそれを体現している。

テクストを書いたJ.-P. シメオンも、演出のシャレッティも、ピロクテテス=テルジエフという定式を信じたらしいが、その点は本当に成功したのだろう。
彼を見るためだけにそこにいたが、確かにそれでも構わなかった。

途中からある考えが浮かんで離れなくなってしまったが、まあ実現はないだろうな・・・

果たしてこの老いたテルジエフほど、ベケットの『エンドゲーム』に出てくるHammをうまく演じられる人間がいまこの世に存在するのだろうか??
そのものだという気がしてならない。

おそらく『ピロクテテス』を読んだシャレッティやシメオンも同じように感じたことだろう。
いたわしい人間の孤独を体現したような人なのだ。

2009/10/18

"Nous sommes incapables de représenter".

面白いものを見たという確信は、泥沼的な日常に差しのべられた力強い手だと感じる。
それが何か自分の抱いている漠然とした疑問に応えてくれるものだからではなくて、
疑問そのものを肯定してくれるような場合に、こういうことが起こる。

面白い芝居とは、ある問いの提示だということなのだと思う。
それが観客には一種、天啓のように受け取られる。

一番最近に見たFrançois Verretの"Do you remember, No I don't"は、まさにそれだった。
ハイナー・ミュラーのテクストPaysage avec argonautes(アルゴ船員のいる風景)をきれぎれに響かせながら、荒廃した世界の断片的風景が眼前に投げつけられる。

灰を拾う異邦人、車椅子の老人、巨大な照明機材(スヴォヴォダだった)とシーソーをして戯れる青年(”わたし”と”機械”とどちらが本当の身体を持っているのだろう?無機物と有機物の美しすぎて不思議な均衡)、高層ビルの谷間で踊り続ける若者、ばかげて明るいテレビ司会者、病院から抜け出したような白衣の少女。

モンタージュされた風景に、通奏低音のような狂気のノイズを奏でるピアニストが加わる。
実際このピアニスト(Sévrine Chavrier)は目を見張るものがあって、演技と音楽を完全にものにしている。
ピアノを壊す勢いで長い長い弦を木片で弾いたり、うめきながら至るところを叩く狂乱の最中に、ほんの一節、鍵盤が高音域で奏でる小さく遠いメロディが、泣きたいくらい綺麗だった。
”世界が別の様相を帯びていた時へのノスタルジー”(Heiner Müller)とはこのことだと思う。

この人はピアノがない時でも、後ろの方に出てきてシャベルで土を掘ったりしていたが、高度に計算されたリズムで、素晴らしい生の効果音を生み出していた。

テクストを読む途切れがちな、どもった声も印象的。
感情のこもらない声で、混沌とした世界の背後から"Qui suis-je? Qui? Moi, moi, moi ..."などと響いてくる。

あるいは、"Nous sommes incapables de représenter"という明言が、観客がまさにそう感じた瞬間に、すっと降ってきたりする。
世界はもう、断片化されたノスタルジーという形でしか再現されえないのか。
現実はすでに、フィクションの領域を超えてしまったのだ・・・

パンフレットを読むと、またしてもapocalypseの文字。
どうやら今期、フランスの劇場は”起きてしまった悲劇”を再現することの不可能性や、その意義について模索しているようである。

2009/09/16

"Philoctète" by C. Schiaretti

O. ピィが17区のアトリエ・ベルティエで『サトゥルヌスの子供たち』をやっている間、
5区のオデオン座では、C. シャレッティが『ピロクテテス』(Philoctète)を演出する。

今シーズンは11月にThéâtre de la Villeでも、J. ジュルドゥイユ演出で『ピロクテテス』がかかる。
いったい何の偶然かと思うのだが、シャレッティはJ.-P. シメオンが翻案したものを、
ジュルドゥイユはH. ミュラーが書いた『ピロクテテス』をJ.-L. ベッソンが翻訳したものを、それぞれ演出するのだ。

シャレッティは、パリの国立高等演劇学校でJ. ヴィラールやC. レジに師事し、1991年から2001年までランスの国立演劇センターのディレクター(D. ゲヌーンの後を引き継いだことになる)、2002年から現職で、リヨン郊外Villeurbanneに移された(1972年)国立民衆劇場(TNP)のディレクターを務めている。

ふむ。

シメオンの『ピロクテテス』に関してシャレッティのインタビューを読んでみる。


"悲劇性の場としての言語"

クリスティアン・シャレッティは『ピロクテテス』で、ローラン・テルジエフを演出する。
彼自身がジャン・ピエール・シメオンに翻案を依頼した、ソフォクレスの作品。
席の予約は必然である。

La Terrasse(T) : あなたは『ピロクテテス』が型破りの悲劇だとおっしゃいます。なぜでしょうか?

Christian Scharetti(C. S.) : 悲劇という割り当てに疑問符をつけたって構わないくらいでしょう。その構造、テーマ体系、指示対象、状況において、『ピロクテテス』は型破りで不気味です。ひとつには、これは人間の悲劇だからです。次に、ハッピーエンドであり、解決できない葛藤に貫かれていない。
そしてこの悲劇はユーモアと、不条理と滑稽味に満ちてもいるからです。

T : それではどこに悲劇性があるのでしょう?

C. S. : 言語のなかです。ソフォクレスはソフィストの論法が最盛期の時代に書いたのです。ほとんどすべての台詞が二重の意味を持っています。意味を決定することはできません、まるで言語が恒常的な両義性のなかで、肯定することが可能な場ではなくなってしまったかのように。悲劇性は言葉のなかにあるというのは、言葉がうまれた瞬間から、真実は嘘になってしまうからです。言葉はセイレーンなんです。

T : ピロクテテスとは何者なんでしょうか?

C. S. : ピロクテテスは悪徳が痛めつけた人間です。毒蛇に咬まれ、苦痛と壊疽に胸をえぐられ、仲間に捨てられて、彼は人間と神とを呪います。彼の内には根本的なアナーキズムがあるのです。徳の追求を繰り返すなかで、非社交性が、彼を強情で不敬な、原初の動物的な状態に連れ戻していきます。彼は追放され、もはや戦いに再び加わることはありません。彼は自分の回想録の中での反乱を余儀なくされます。彼の眼前にはオデュッセウスが、嘘に頼ることの必要性を知っている役割の実用主義と、政治的な原動力とはなりえない怨恨を消す必要性のなかにたたずんでいます。その間を行ったり来たり、バランスがとれるまで続きます。

T : なぜテルジエフがピロクテテスを演じるのでしょう?

C. S. : テルジエフは現代演劇の世界において、特殊な地位にあります。テルジエフはピトエフなんです。『詐欺師』の神話、美しくも反逆的な若さの神話なんです。テルジエフはまた、誰にも何も負うことがないような根源的な作品を追い求めた劇団の孤独です。その根源性から観客が読み取るもののなかには、神話性と、彼の偉大さを作り上げているこの隔絶があるのです。この意味で、ピロクテテスを演じながら、彼は明らかに気高さと脆さのなかにあります。なぜテルジエフか?質問になりません。彼がピロクテテスなのですから。

(Catherine Robertによる記述)

2009/09/13

Olivier Py 2009-2010

劇場でLa Terrasseの10月号をもらった。

インタビューを発見したので翻訳してみる。
相も変わらず抽象的で、とりとめがなく、論理的なのか適当なのかわからない発言だけれども、なぜか苦笑してしまい、人に元気をくれるのがこの人のいいところだと思う。

彼のジョーカー、『サトゥルヌスの子供たち』は果たしてどこまで連れていってくれるんだろうか?

インタビュー:オリビエ・ピィ

《複数の自分をもつシーズン》

オリヴィエ・ピィがオデオン座のトップに就任して三期目にはいり、オデオン座を演劇の首都に変えていくなかで、ディレクターとして、また詩人として、多様な提案とクリエーションを続けている。

La Terrace (T): 『テーバイの七将』の成功に支えられて、劇場外での公演を続けるわけですね。

Olivier Py (O.P.): 『テーバイの七将』は、本当に小さなものであって、ひとつの試み、ひとつの仮定でした。どこででも上演できるように、ものすごく軽い劇が必要だったんです。しかしまた、野望としては大きな作品であるのと同じくらい、財政的には小さく済む計画が必要だったと言えます。この実験的な冒険において、僕はアイスキュロスの全作品を演出したいと思ってるんです。初めの一歩があまりに熱烈で感動的だったので、続けるしかなかったんですね。これは、アイスキュロスの中に芸術表現の対象を見出したという社会文化的な計画ではありません。むしろまったくの逆でして、このことこそが計画を成功に導いたのです。


T : オデオン座に来て以来、あなたと観衆との関係はどう変わりましたか?

O.P. : 僕は、脱中央集権化のなかで学んだものと共にやって来たのです。国民教育省や組合との関係を再活性化しなければなりませんでした。また、僕らは出版社やINA [フランス国立視聴覚研究所] との結びつきも広げました。割引料金を奨励するような価格形態も設定し、それによってこの劇場が単に消費の場ではなく、講演会や討論のある市民生活の場となるようにしています。僕は、オデオン座が本当に自己を、互いを再発見するような場であってほしいんです。アトリエ・ベルティエに関して言えば、あの界隈で唯一の文化発信の拠点であるわけですが、ここでも上演の時間外にさまざまな活動を繰り広げていくつもりです。


T : 2009-2010年のシーズンは、何らかのテーマをめぐって構成されているのですか?

O.P. : テーマごとのシーズンという考え方はいつもものごとを単純化してしまいます。それはともかく、劇場というのはひとつのスポンジで、世界の議論を吸いこむものなのです。この観点からすると、政治的な問題が今シーズン至る所に張り巡らされていると言えます。まるで今年は、世界という意識がより一層高まっているかのように。しかし極めて重要で、中心にあるのはヨーロッパ的な計画で、ディミトリス・ディミトリアディスという主要だけれども知られていない、この偉大な作家をめぐって構成されています。
僕はひとつのシーズンが、たとえば古典的な形態、規律を乱すような形態、古いものや新しいもの、ヨーロッパの作品やフランスの作品を織り交ぜた多様性に特徴づけられるようなものであるように願っているんです。


T: 今シーズンは『サトゥルヌスの子供たち』で幕をあけますね。この新作についてはどうですか?

O.P. : これは僕の呪われた芝居です。人は時として、自分自身のもっとも黒い部分に近づくことがあるものです。僕は、『イリュージョン・コミック』という喜劇から脱しました。もう笑いには耐えられなかった。

『サトゥルヌスの子供たち』は、今日のフランスにおける偶像の凋落に言及しています。この芝居はひとつの文明の死を語るのです。僕はいくつかのフランス的日常が失われていくことに、強い衝撃を受けました。それらは政治とのある関わりの消滅や、僕自身が傷つきながらも歩んできた文学というものの上に成り立つ世界の消滅を表す、時代の象徴のように思われました。このテクストは難解で、不快で、乱暴で、終末的な芝居と言えますが、陰鬱でありながらも絶望しているわけではありません。

T : それほどの暗さのなかで、希望はどこにあるのでしょうか?

O.P. : すべての惨事において、何かしら明らかになってくるものです。僕は思うのですが、ヨーロッパの未来はそのようにして、南北の対話の中にあるのです。それを僕は、『サトゥルヌスの子供たち』のなかで、老いたサトゥルヌスに束縛されない自由な後継者としてのヌールという人物に寓意化しようとしています。この芝居では、息子たちは父親とうまくいっていません。堂々巡りの世界において、彼らの関係は非常に困難なものとなり、他者を受け入れることができなくなっています。基本的には、僕はいつでも希望はあると信じています。第一に、ある人からほかの人へとそそぐ光を妨げるものは何もないからです。その次に、若さを信じなければならないからです。人は、光や若さをゆがめてしまうことはあるかもしれませんが、それを望むことは妨げられないのです。父は、息子が自分の場所を勝ち取ることを妨げないでしょう。僕らが6月に主催する、若い劇団のためのフェスティバルのタイトルは”待ちきれない”っていうんですよ!

(Catherine Robertによって記録された)

2009/08/21

皮膚感覚という信仰

ここひと月ばかりの間に、幾人かの知人と力強い握手を交わした。
別れ際のことだ。
いま、この瞬間が最後だという気がしてしまう。
相手がどう考えていようとも、こちらはなぜか常に「最後にはしないぞ」という姿勢で手を差し出しているにもかかわらず、一期一会の文字を思う。
言い方を変えれば、それでもいいんだ、という気がする瞬間である。
半泣き状態の心境でありながら、なにか確信のようなものを得た心持ちになっていることが多い。
そう、どこかで嬉しいのである。
だから泣けない。

先日、友人に誘われて青山でやっているDialogue in the darkというイベントに参加してきた。
完全な暗闇の中を、視覚障害を持つ案内人と共に散策する、というものである。
1989年にドイツで考案されて以来、ヨーロッパ各国で実施されてきたという催し。
どうやっているのか分からないが、どんなに眼を慣らしても、凝らしても、ひとかけらの光=なにがしかの影、も見えない。
自分が自分を認識できないような闇の中を7人の会ったばかりの人とグループになって歩く。
普段から暗闇がこわい、と思っていた人は、震えるくらい不安になる。
これは経験してみないことには分からないが、ふつうの人も一瞬パニックに陥る。
「声を掛け合って互いの位置を確認し合ってください」
こういう指示が最初から出ていたが、言われずとも声を出していないと、自分がいないようで非常に不安になるので、しゃべりまくる。
独り言も多くなる。が、暗闇はなぜか澄み切ったように静かなので、みんなの独り言がみんなに聞こえてしまう、という状態になる。

案内人の声に従って、(見え)ない橋をわたり、(見え)ないスイカを触り、(見え)ないベンチに腰掛ける。
近くにいると思しき同行者の手をひいて、「ここ」にスイカがあるということを触覚をもって教え合う。
「ここ」がどこなのか、「これ」がスイカなのか、そこにあるのかないのか、触れなければ分からないのだ。(「そこ」という言葉は発される意味すらない)
声を発さない物体は、触れなければ、存在しないということになる。

「触らぬ壁に語りなし」とはよく言ったものである。

視覚障害をもつ案内人は、頼れるものは「音」だと言った。
距離を測るのは音/声しかない。
しかし、眼が見えているはずの者にとって、最も頼れるものは触覚だったと思う。
傲慢であるとも、情けないとも思ってしまうのだが、触ると、「見える」気がするのだ。
暗闇にはいる前に見た、会ったばかりの人たちの姿かたち。
自分が見たことのあるような、触れたことのあるような仕方で想像されるベンチ、テーブル、グラス。
不思議なことにそこには色もついている。
触覚が「見える記憶」を喚起しているようである。

そうして、見えないイメージが眼前に結ばれると、言いようのない幸せな気持ちになる。
それがおそらく実際には違う姿であるとしても、だ。
いや、実際の姿を知らないゆえに想像の可視的世界に遊べる、というのだろうか。

このとき、声は確かに存在を示してくれたけれども、声は距離を埋めてくれない。
自分から離れて誰かがいる、ということを示してくれるのみで、完全に自分に存在を知覚させてくれはしないのだ。

一時間の暗闇散策を終えたころには、恐怖もどこへやら、見える世界が色褪せていた。
名前で呼び合ったグループの人々も、互いに姿を見られまいと(そういう感じがした)、そそくさと帰ってゆく。

暗闇のなかでは、運命共同体的なグループの結束まで感じられてしまったから不思議だ。
見えない、という状況において、演劇のひとつの理想である共同体が生まれてしまったようで、皮肉である。
誰も演じてないし、誰も見えていなかったけれど、なにか同じものを見ている感覚があったのではないだろうか。

要するに、同じものを見ていなくとも、同じ経験をしている瞬間、共同体はあるのではないだろうか。
演劇théâtreの語源と言われるtheatronとは、ギリシア語で「見る場所」であって、論文を読んでいるとしょっちゅう引き合いに出されて、まるでそれが「演劇=見る」という動かぬ証拠であるかのようなのだが、この「見る」はひとつの「経験」として考えられるべきで、具体的な対象を求めてはいけないのかもしれない。

フロイトによれば、「視覚的な印象は、分析の背後で、触覚的印象へと連れ戻されうる」という。
精神的レヴェルにおいて、「見る」は「触れる」につながっているのだ。

ものすごく面白い芝居を見たとき、離れた席にいても、間近で見たように記憶していることがある。
逆に、ものすごく狭い劇場で、至近距離で俳優を眺めていても、まるで遠い出来事のように思えることがある。(先日のAPOCシアターでのラガルス『ただ世界の終り』なんかは好例である。)

どれだけたくさんの言葉を駆使しても、どれだけ飽き足らず顔を眺めていても、触れることに敵う存在感はない。
実際の生活では、手を握ってしまえば心のうちが見えてしまう。気がする。
本当には理解できていないのだろうが、それでも納得できてしまうのだ。
いろいろな感情がふってくるのだが、それでいい、と思える。

一般的な演劇では、触れることができない。
よく観客に触りたがる芝居はあるが、触っちゃったら終わりだろう、と思う。
触れられるならフィクションは必要ないからだ。

見ることで触れさせてくれるような芝居に、今後もっと出会えることを願うばかり。

そういえば、握手してくれた方々はすべて演劇人であった。
触れてはならない身体とつき合っている人々の握手は固い。
しかと受け取りました。

2009/07/25

ぶらり音楽会

炎天下、世田谷美術館のヴァイオリン・リサイタルに行ってきた。
ヴァイオリンは斎藤咲恵、ピアノは原田恭子のプラハ音楽留学二人組。

世田谷美術館の無料コンサートは、前回痛い目にあったのだけれど、公園の緑を眺めつつぶらりと立ち寄って、ほのぼの音楽鑑賞できるというのが良い。
・・・と思っていたら、今回の腕前は段違いだった。
ヴァイオリンはチャリティ・コンサートどころでなく、ホールで十分通用する迫真の演奏で、ひさびさに鳥肌が立った。

プログラムは全てチェコの作曲家を集めてあり、ドヴォルジャーク以外は初めてだったので新鮮。

Jan Ladislav Dusik(1760-1812):Sonata op.69, no.1
リスト・ショパン・スメタナなどロマン派の先駆者で、古典とロマン派の中間にあるピアノ奏者兼作曲家。
曲は古典らしい明るさと、チェコの民俗音楽の要素が散りばめられている。
ソナタ第三楽章のロンドでは、明るく軽快なポルカのリズムを刻む斎藤さんの微笑のうかんだ顔を見てるだけでウキウキしてくる。
リズム感覚が鋭く、難しい部分をこそ楽しんでいる様子が伝わってきてすっかり乗ってしまう。

Bohuslav Martinu(1890-1959):Sonata pro housle a klavir no.3
チェコとパリで音楽を学び、その後アメリカに移住、著名なチェコ人の例にもれず故郷に帰ることのできなかった一人。
作曲は、やはり!と思わされたが、ドビュッシーに憧れて渡ったパリで、ルーセルやフランス六人組、ストラヴィンスキーの影響を受けているようだ。
無調な感じといい、夜を思わせる神秘的な雰囲気といい、なにしろ印象主義っぽい。
すぐにCDを探したくなる久々のヒットだが、生演奏ゆえのパフォーマンスが重要な曲ともいえる。

ヴァイオリンとピアノの激しい対話が続く第一楽章のあと、第二楽章に現れるチェコの憂愁のメロディが夢のなかで辿り着いた故郷、という感じがして心を揺さぶられる。
留学中にこんなの聞いたら泣いてしまうだろう。
ピアノとヴァイオリンの一騎打ち、とでも言えるような鋭い掛け合いを演じる二人を見ながら、チェコでの音楽留学生活の密度を想像してしまう。

ヴァイオリンの斎藤さんは、オーストリアでのボフスラフ・マルチヌーコンクールで3位入賞、イタリアのアルスノヴァ国際音楽コンクールで優勝、と実力派らしいが、世田谷美術館の無料コンサートにだって一ミリも手を抜いていないのが分かる。
配布された曲目解説も入念に聴きどころが紹介され、近所のおばちゃんや野球帽のおじちゃん相手に真摯に、かつプロのプライドを持って向き合っている。

Antonin Dvorak(1841-1904): Sonatina op.100/Romance op.11
ロマンス作品11のピアノがオルゴールのようで素敵。
この曲は、弦楽四重奏第5番へ短調、op.9、B.37の第二楽章をもとにヴァイオリンとピアノ伴奏用に編曲された。
ドヴォルジャークが結婚前にアンナ・チェルマーコヴァーへの恋心を歌ったものらしく、繊細な動きと情感あふれるメロディが印象的。
斎藤さんはトリルや装飾音をものすごく正確に美しく弾くが、意外にロマン主義的な陶酔感で歌うことは少ない。きりっと冷静なのだ。

Otakar Sevcik(1852-1934): 1. Holka modrooka z Ceskych tancu a napevu
(オタカル・シェフチーク:チェコの踊りと民謡より 第一番”青い目の少女”)
プラハ音楽院の伝説的教師、その教則本はヴァイオリン奏者必携、らしい。
ヴァイオリン未学習者には、どうなっているのかさっぱり分からないような超絶技巧が散りばめられた曲。
楽器のあらゆる可能性を試されている、という事実だけは、はっきり分かる。
そして奏者がかなりの技術の持ち主だということも感じられる。
ピチカート好きとしては実に楽しい逸品だが、分からないなりにもフラジオレットなどは聞いていてハラハラするので、ちょっと心臓に悪い一品でもある。

日本では難解な曲はコンサートで演奏しても客が集まらないという事情があるらしく、どうしても誰もが知っている曲を聴くことになる場合が多い。
そんな中、新たな発見をくれたチェコ一色コンサートはなかなか貴重かもしれない。
室内楽用の平坦なホールで距離感がないのも好もしい。

地域のコンサートは、7月あたまに成城ホールでしっかりお金を払って聴いたギター×ヴィオラ×フルートの演奏のようにフワフワーっとなんとなく「地域住民とともに良い休日を過ごした感」を与えてくれるものかと思っていた。
が、こんなに気合の入ったものを聴かせてもらえる時だってあるのだ。
いつでも本気でいなくちゃ駄目なのだ。

2009/07/17

プロペラ

一週間以上前になってしまったが、8日は東京芸術劇場でプロペラを観た。
野田秀樹の芸術監督就任の記念公演第一弾。
演目はシェイクスピア『夏の夜の夢』。
演出はエドワード・ホールで、15年来の野田の友人だという。

男ばかりの劇団で、ワイワイ・ガヤガヤ踊りながら古典の読みなおしを図る・・・
そういう触れ込みだったと思うのだが、意外や意外、とってもお上品な仕上がり。
むさ苦しい体つきの男性陣もいるけれど、パック役・タイターニア役の彼らは綺麗な足をしていて、それなりに可愛らしい。

しかし上品なのは、そういった見かけとは恐らく関係ない。

まず、効果音が生であること。
要所々々で、全員が小さなハーモニカをくわえて吹きながら移動する。
いろんな音階を大人数で一度に吹くので、ざーっと風が通り過ぎたような感じになる。
音って空気だなあと思う。
もうひとつ、舞台装置の奥、左右にグロッケンシュピールが配置されていて、何人かの俳優がこっそり簡単なメロディを奏でたり、「魔法が解けました」と言わんばかりに、チロリーン、と鳴らしたりする。
これは非常に爽やか。
おとぎの国の雰囲気が漂ってくる。
合唱の部分もあるが、誰もつぶれたような声を出したりしないので快適。

もうひとつは、動きがしなやかであること。むやみにバタバタ動かない。
びっくり箱のようなものからパックのしましまタイツが出てきて、ひょっこり登場する様子なんか、音もたてずにやってのけて、さすが妖精、という具合だ。
ひとりひとりの演技レベルが高いのだろう。

・・・
・・・
・・・でも、

でも、それしか覚えていない。

2階席で遠かったのがいけなかったのかもしれない。
芝居がかった同時通訳をたまに聞いてしまっていたからかもしれない。
あるいは上手にできすぎていて、粗忽者は妖精の国に入れてもらえなかったのかもしれない。
はたまた、英語のリスニング能力が低すぎたのか。

ものすごく遠ーい出来事なのだ。

ひとつだけ分かる理由は、丁寧さ・こまやかさの素晴らしさ(ほんとうに素晴らしいと思う)と引き換えに、テンポが遅いからだということ。
面白いことを言っているのに、間があきすぎていて、笑うタイミングがつかめない。
英語を聞かずに、イヤホンの通訳に聞き入っている観客が3分の2ほどいるから、すっかりタイミングもずれて、なおさら誰も笑わない。
これは悲しい。

他にも理由はあるかもしれないが、舞台と客席の間にあそこまで厚い壁がある『夏の夜の夢』というのも不思議だ。
パリのアトリエ・ベルティエでの公演なんかは観客に混ざりたくて仕方がない、という演出だった。

いつかもう一度、本拠地ウォーターミル劇場で観てみたい。
絶対に、どこか違った高揚を感じられるはずだ。

2009/06/14

週末ハシゴ=静岡+中野

あまりにも久しぶりに観劇。
生気がよみがえる感あり。

13日、SPACの春の芸術祭、”週末ハシゴ”なるものに則って三演目を観る。


①『半人半獅子ヴィシュヌ神』
ゴーパル・ヴェヌ率いる一座によるインドの古典舞踊クーリヤッタム。
今回はその一分野であるナンギャール・クートゥーで、演奏者のほか演じるのは女性一人である。

ヴィシュヌ神顕現のお話を体、手、眼で語る。
何役も一人で表現するが、表情、仕草が端的に誰を体現しているのかを示している。
女神の慈愛のほほえみ、魔王の尊大な居姿、敬虔な息子の低姿勢。
ヴィシュヌ神の飛び出た眼と全身の痙攣。血走った眼がぎょろぎょろと動くのは、魔王よりも獣らしい。
象に蛇に、次々と言葉もなしに役を演じていく。太鼓のリズム・強弱がそれに応じる。


時折、場面解説に字幕が出たが、どうもしっくりこない。
何もなければ分からない部分もあるかもしれないが、至極単純な話であり、始まる前にゴーパル・ヴェヌ氏が説明をしてくれたものなので、なんとかなる程度でもある。

質疑応答で「動作には手話のように意味があるのか」という質問が出るほど意味深長な動きは、カピラさんの応答では「手の動きには文法さえあって、全てのセンテンスを語ることができる」そうだから、インドの人々には言葉のように動作を読むことができるのかもしれない。
でも日本語の電光掲示板が、素晴らしい清浄な空気を持つ”楕円堂”に溶け込んだカピラさんの神聖さを損なってしまった気がしてならないのですが・・・


印象的だったのは、ポストトークに出てきた時のカピラさんの女性らしさ。
かわいらしい、とさえ思ってしまう。
体の大きさが違って見えるほど、神々を演じている間は中性に近づいているのだろう。
舞台をあとにする際の小さな祈りにも、感銘を受ける。
剣道場を後にする真摯な中学生のようにひたむきだ。
このように舞台に接する人を見ると、なぜか救われた気持ちになってしまう。




②『ブラスティッド』
サラ・ケインのデビュー作、1995年初演。
今回は、フランス人ダニエル・ジャンヌトーによる演出に、SPACの俳優陣が出演。
過剰な性描写、狂気、暴力を扱った恐ろしげなるものと思っていたが、意外とそう恐ろしくもなかった。
・・・どこか空々しいというか。
翻訳劇は某大先生の仰る通り、どうしてもそうなる運命にあるのでしょうか。

一方で生々しさの緩和は、たしかに雨の音と、布施安寿香の非現実的な声の作用でもあると思う。
こういうさわさわと響いている音が、何かヴェールのように舞台の陰惨さを包んでいる感じがして、図らずも心地よい感じがある。


気になったことは、兵士が入ってきて「爆破され」たあと、場面が大きく変わる際の場面転換。
暗転している中、係りの人が本当に文字通り「どたばたと」入ってきて、冷蔵庫を倒したり、灰を撒き散らしたり。長々と準備をしている間がもっていない感じがある。
もし、この「どたばた」が部屋をめちゃくちゃにする暴力的な力を表現する一端を担っているなら、冷蔵庫ひとつ、安全な方向に投げつけるくらいの勢いでやってほしい。
慎重にコンセントにつないでいる様子は、とてもこのような意図があるようには見えない。
もし、単に大急ぎで大きく場面転換をしたのなら、暗転する意味がないほどうるさい。
暗闇のなかとはいえ観客には見えているし、人々の統制されていない息遣いだってわかってしまう。
この目の覚めるような「現実らしさ」に引き替え、次の場面の「陰惨さ」はなんと空々しいことか。

ローラン・ペリエのシャンパンは、空けた途端に会場が酒臭くなって、何本も吸った煙草の匂いと相まって、匂いの演出をしていた気がします。
舞台と客席の間に敷居がなく至近距離で見るBoxシアターならでは?




③『プ・レ・ス』

フランス人、ピエール・リガルによる振付・出演。
400mハードルの選手に、ドキュメンタリー・フィルムの作成、という面白い経歴の振付家。

もっとも、すべてが上演に活かされている。
暗闇に浮き上がる長方形の枠のなかで(=切り取られたフレーム)、足の関節が電気スタンドの首の部分と重なって、バネのように見えてくる振付(=運動原理の追求)。
人間の有機的な身体が逆に機械を模倣しているという印象を植えつける。

どんどん縮小するフレーム内の空間に、半狂乱で跳ねまわるシルエット。
「カフカ的だ」と指摘した観客がいたが、羽がもげたり首がとれてもなお蠢いているような虫を連想させもする。

本来なら逆立ちしているだけなのだが身体の安定性で、天井と床の反転が起きる。
意味の逆転した世界で、虫になり、機械になった人間がネクタイを直し、煙草を片手にポーズを決める。思わずふっと笑ってしまう。
こういう滑稽さは初期のベケットとも通じている。
パイプ椅子の背もたれに頭から突っ込んで三点頭立のようなポーズを決める姿が、どうしてもマーフィーを彷彿とさせる。
揺り椅子に縛り付けられた身体、揺らしすぎて顔面からすっ転んだまま静止・・・
『プ・レ・ス』はロンドンのゲイト・シアターに委嘱されて作ったものだというが、このユーモアの感覚、ダンディズムはまさにロンドン流、ということか。
『マーフィー』もベケットのロンドン滞在をもとに書かれていた。



静岡から帰って翌14日、中野テルプシコールで『幽霊三重奏 テレビのための劇』、『あたしじゃないし、』を観る。佐藤信の鴎座協賛のプロジェクト、「ベケット・カフェ」の第二弾。

①『幽霊三重奏』
翻訳は早稲田グローバルCOEのベケット・ゼミの諸氏。
鈴木章友による演出。

地続きの舞台と客席の間に薄青い紗幕。ここにカメラをとおった映像が映される。
と同時に、透けて見える向こう側の”本物の”舞台で、”生中継”のようにカメラマンが男を撮影している。
テレビ劇なので「ほんとうは舞台でやっちゃいけないと思うのですが」と言う鈴木章友だが、これはこれで主観の多重性が感じられて良かった。
もとは想定外だったようだが、場面を映し出す紗幕が風に揺れているのも、カメラを通した画面の有機性、裏の生の舞台の無機性という対立が感じられて面白い。

パリで最近いくつかベケット作品を演出したBernard Levyも紗幕にテキストを映す演出をしているが、本来の劇が始まると紗幕があがってしまう、というのはいただけないと思っていた。
紗幕越しに見るベケット劇、というのは悪くないと思う。
後期テレビ作品の上演には向いているかもしれない。

宮沢章夫が来ていて、「窓」が窓じゃなくて扉なのはナゼだ、とつっこんでいた。
さらにひとこと全体の感想、「これは窓じゃないって感じ」。
面白いけれど、これじゃない、ということ。
この感想は普段のしゃべり言葉に訳されたNot Iに関するものだったような気がする。

②『あたしじゃないし、』
岡室美奈子による翻訳、川口智子演出。

「出ちゃった!」で始まる今回の上演のための新訳。
話を立ち聞きしていたら、岡室氏によれば「翻訳は使い捨て」だということ。
オカルティズムを研究する自らを茶化して「霊媒翻訳者」と書いているが、彼女の口を通した言葉の響き、リズムは意外にも心地よく(?)怒涛の流れをなしていた。
「・・・てかマジで?うそだよ、そんなわけないじゃん」(と本当に言ったかどうか忘れてしまったが)などという”貧相な言葉”(と誰かが評したらしい)がズラズラと降ってくるのだが、本当に意外なことに不快ではない。
山下順子の声の切れの良さもあって、むしろテンポ良く、テクストの味が感じられる。
BBCで放映されたヴァージョンの印象に近い。

反面、演出。
勢い込んでしゃべっている動きがばれてしまうゴミ袋のドレス、カツラは余計だとしか言いようがない。
対話を意識したというが、「口」と「聞き手」の間に数メートルもない正面切った関係性、というのも考え難い。その上、「聞き手」に終始明るいライトが当たっているのもなあ・・・

狭い空間で演じるからこそ、もっと薄暗くて良かったのではないか。
この明るさは、「ベケットは抽象的で難解で高尚なもの」では”ない”とする岡室氏の意向もあるのか・・・

それぞれ分解してばらばらに配置しなおしたら、すごく良いもの、というか、「これだ!」になる気がする。

2009/04/20

Pierre NOTTE × 鈴木康司

20日、恵比寿の日仏会館にて講演会"Comédie française hier et aujour'huit"を聴く。
中央大名誉i教授の鈴木康司とコメディ・フランセーズのsecrétaire généralであるPierre NOTTEの対談。

前半は350年の歴史を一気に説明するも、中世風の並列舞台の様子や、その後取り入れたイタリア式額縁舞台の様子を描いたものを見ることができたのは、なかなか面白かった。

灯油に芯を入れて火をつけただけの無数のフットライトがスカラムーシュを照らしていた。
当時ろうそくのシャンデリアだったわけだが、いつも疑問に思うのは、上演中うっかり、ろうが落ちてきたりしなかったのだろうか、ということ。たぶんしたんだろうな。
18世紀のおわりには反射鏡やケンケ燈の発明で進歩が見られたらしいが、1799年に劇場は火事で焼失しているのもうなずける当時の照明である。床や衣装にろうが垂れるくらい当り前か。
とはいえ、ケムそうだけれども、最初から最後まで火に照らされる芝居、一度観てみたい。
最近、オデオン座(『繻子の靴』)やコメディ・フランセーズ(『シラノ・ド・ベルジュラック』)では大がかりな炎の演出があって、その時は舞台の照明も消していたが、やはり火の光の揺らめきというのは特別な感興ををそそる。
明るすぎず、有機的な照明、というのもいい。

後半、ようやくノット氏が口火を切る。というか、話す場を与えられる。
爽やか美男、ずいぶん若そうに見えるが、Le Figaroいわく"Un dandy acide"。
質疑応答の際にちらりとその手腕を見せてくれる。
ある女性が、サルコジ政権になったことでコメディ・フランセーズにはどのような影響があったか、という質問をしたところ、

「今年からUbu roiがレパートリーに入ったよ」

と答えてニッコリ。
文化を解さない政治人間、というレッテルをはられ、長身の素敵な女性と「終始からみあって」新作のリハーサルを観に来た大統領より、同日に来たカトリーヌ・ドヌーブのお相手を務めるのに暇がなかったらしい。
実際、ノット氏はMoi aussi, je suis Catherine Deneuveという劇でモリエール賞をもらっている。

ノット氏によるコメディ・フランセーズのミニ情報:
①2006年、コメディ・フランセーズはオリヴィエ・ピイに依頼して、Les Enfants de Saturneという劇を書いてもらったらしいが、査読委員会はこれを斥けた。作品は2007年にActes Sudから出版されている。
②2002年にコメディ・フランセーズ入りした黒人俳優Bakary Sangaréが演じた『タルチュフ』のオルゴンに対し、100通以上の抗議の手紙が届いたという。今日でも、この劇場ではbienséanceが求められているし、存在するらしい。この人はピーター・ブルックのところにいた俳優。
人種問題は伝統を守るべきコメディ・フランセーズには避けがたい問題なのだろうか、L'affaire Koltèsなる事件も勃発。アラブ人の俳優がいない、という状況で『砂漠への回帰』を上演することへの抗議。
③現代フランス劇を取り入れる努力をする中で、VinaverやLagarceの劇は成功裏に終わったが、超・現代的な演出を施したコルネイユのL'illusion comiqueは、観客を取り逃がした。よくわからないものの中に理解できる部分を見出すのはいいが、理解している(と信じている)ものをゆがめられるのは許せない、という観客心理だろうか。
④2011年、新たに生まれ変わるため、リシュリュー劇場は休館します。

2009/03/30

ゆっくり語るベケット

ベケット劇の2公演。

①21日、パリ日本文化会館にて。
舞踏との二本立てで『あのとき』、『言葉なき行為II』、『ロッカバイ』。

演出:Philippe Lanton
振付:Katsura Kan (桂勘)
出演:Le Cartel

全体的にぼんやりした印象。

・『あのとき』の声は、よどみなく機械的に流れてくるものなのではないだろうか??
文節をくぎって、分かりやすく語ることで観客の耳には言葉として残るけれども、あれだけ間延びしていたら、もとから上演に向かないとされる戯曲の何もかもを駄目にしてしまう気がするが・・・。
・『言葉なき行為II』は、躁鬱的な男二人の対比が弱くてこれも面白みに欠ける。
その上、相違を音楽によって表わそうとしているのが現代の演出の逃げとも感じられ、より不快である。行為で表わさなくてどうするんだ?
2006年Bouffes du Nordでのブルック演出は、本当に滑稽で悲愴で、それぞれともかくも生きている二人に愛着を感じたものである。
・『ロッカバイ』も同様、テンポが悪くてとらえどころがない。眠い。
"Encore"と言うたびに近づいてくる工夫もあるが、時間もかかってますます間延びしていた。


②28日、Athénée-Théâtre Louis Jouvetにて『ゴドーを待ちながら』。

演出:Bernard Levy
ヴラジーミル:Gilles Arnbona
エストラゴン:Thierry Bosc
ラッキー:Georges Ser
ポッツォ:Patrick Zimmermann
男の子:Garlan Le Martelot

ここの劇場のGrande Salleはベケット劇を上演するには舞台の奥行きがありすぎるだろうと思っていたが、灰色の壁で舞台を囲んで狭めてあった。
究極の二択。
舞台が広すぎるとおかしい。というのも、一本の道と一本の木があるきりの空間が身上の戯曲であるのに、どこへでも行けそうな様相になってしまう。
かといって、わざわざ区切っても、空間的な境界を感じさせないのが身上の戯曲が台無し。
演出だけでなく、劇場も選んでしまうベケットの気難しさである。

内容的にも演出的にもがんじがらめの状況をどう打破するのか?
(打破する必要はあるのか?)

幕の上がる前、ノスタルジックな音楽とともに、紗幕にテクストを映写。
(これから始まるのは、むかしむかしの物語・・・と言わんばかり。)
ポッツォがマイクを持つ。
ラッキーにスポットライトが当たる。
ひとつひとつの単語をゆっくり発音して、かの狂乱のモノローグをきちんと聴かせつつ、笑いをとる。
(娯楽番組の司会者&出演者としてのポッツォとラッキー)
蹴る、投げる、転ぶ、などの行為には全てマイクを通した効果音がはいる。(不快。)


ベルナール・レヴィの試みは、ベケットを古典文学として過去へ追いやることなんだろうか。
『ゴドー』をtélé-réalitéにしてしまうことで得られるものって何だ?
果たして現代演劇はそうすることでベケット演劇を乗り越えられるのか?
ベケットを理解させる上演をする、ということに意味はあるのか?

滑稽でもの哀しく、何だかわからないものをそのまま劇場に提出したのがベケットではないのか。

・・・あるいはアテネ劇場でゴドーを観る、ということ自体が完全に間違っているとも思う。

2009/03/28

『繻子の靴』付記

・・・10時間かかるあれほどの上演を、学生料金15ユーロで観られたことに感動しました。
換算しても2000円以内に収まってしまう。

スペイン黄金時代を字義通りに演出した、すべて金ピカの舞台装置(でもハリボテで裏は煤けていることを見せるのが面白い)、オセローさながら嫉妬に燃えるムーア人ドン・カミーユとドーニャ・プルエーズを取り囲む炎の演出、18人という俳優に3人の楽団。
オデオン座はお金があるなあ、と思わずにいられない。

フランスってすごいですね。やはり。

2009/03/27

『繻子の靴』という世界

25日、26日と二夜連続でO. ピィ演出の『繻子の靴・完全版』を観た。

一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。

ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。

世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。

技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。

楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。


『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。

そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。

舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。

"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)

それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。

2009/03/11

そういえば、リア王

2007年秋、ナンテール市のアマンディエ劇場でLE ROI LEARを観た。
演出は、Jean-François SIVADIER。

面白かったこと、
①木製の舞台が、途中、人の手で分割されてばらばらの舞台を作りだし、その上を俳優があぶなっかしげに動き回る。
そのほかには何もないシンプルな舞台装置だが、土地分割をもとに始まったリアの悲劇が裏打ちされて、うまい。しかも利便がいい。
②コーディーリア演じる女優のNorah Kriefが、発狂寸前のリアの旅路を支える道化役も演じている。
舞台上で道化服を脱ぐと、ドレスを纏った王の娘となって父を迷いから覚ます。
なにしろ可愛らしい道化だったので、ほほえましくも感動的である。

今回の主役は、”無”をとりまくコーディーリア×道化だったらしく、パンフレットにはアンリ・ミショーの詩が引用されている。


Un jour.
Un jour, bientôt peut-être.
Un jour j'arracherai l'ancre qui tient mon navire loin des mers.
Avec la sorte de courage qu'il faut être rien et rien que rien,
je lâcherai ce qui paraissait m'être indissolubrement proche.
Je le trancherai, je le renverserai, je le romprai, je le ferai dégringoler.
D'un coup égorgeant ma misérable pudeur, mes misérables combinaisons et enchaînements de "fil en aiguille".
Vidé de l'abcès d'être quelqu'un, je boirai à nouveau l'espace nourricier.
A coup de ridicules, de déchéances (qu'est-ce que la déchéance?),
par éclatement, par vide, par une totale dissipation-dérision-purgation,
j'expulserai de moi la forme qu'on croyait si bien attachée, composée,
coordonnée, assortie à mon entourage et à mes semblables, si dignes,
si dignes, mes semblables.
Réduit à une humilité de catastrophe, à un nivellement parfait comme après une intense trouille.
Ramené au-dessous de toute mesure à mon rang réel, au rang infime que je ne sais quelle idée-ambition m'avait fait déserté.
Anéanti quant à la hauteur, quant à l'estime.
Perdu en un endroit lointain (ou même pas), sans nom, sans identité.

CLOWN, abattant dans la risée, dans le grotesque, dans l'esclaffement,
le sens que contre toute lumière je m'étais fait de mon importance.
Je plongerai.
Sans bourse dans l'infini-esprit sous-jacent ouvert à tous, ouvert moi-même à une nouvelle incroyable rosée
A force d'être nul
et ras...
et risible...


・・・出典が書いてない。探そう。

2008年夏の『オレステイア』(O. ピィ演出)では、オレストの父アガメムノン演じるPhilippe Girardが、アテナの神殿でオレストを擁護するアポロンも演じていた。
こういうのはよくある演出なのかもしれないが、演出の意図が明快で分かりやすく、気づいた瞬間に、にっこりできるので楽しい。

2009/03/07

F/T

3月5日、にしすがも創造舎にて、高山明の演出で『雲。家。』を観る。

東京都文化発信プロジェクトの一環、Festival/Tokyoという舞台芸術祭のための再演。

2004年ノーベル賞を受賞したオーストリア人作家Elfriede Jelinekの戯曲。
Port Bの高山明は、同時に上演(?)するツアー・パフォーマンス『サンシャイン63』を絡ませ、日本独自の問題を浮き彫りにしようと試みる。
池袋のサンシャイン60ビルがある場所は、いわゆる巣鴨プリズン跡地。
東条英機をはじめとする第二次大戦の戦犯が処刑された場所である。
保守政治、ナショナリズムを痛烈に批判したイェリネクのテクストに重ねて、戦後日本の行方をさがす、といったところだろうか。

舞台は、インスタレーションを得意とする高山明ならでは、なのだろうか、暗く冷たく、美しい。
本来ありもしないビルの3階層(サンシャイン63-60=3)が紗幕の向こうにそびえ、「わたしたちは・・・わたしたちは・・・」と百篇もつぶやきながら女の亡霊が行ったり来たり。
時間をかけて、前舞台まで下りてくる。

幽霊然とした女が足を引きずり右往左往する姿が、サミュエル・ベケットの『あしおと』を彷彿とさせる。
というか、すんごく似ている。

ぼろ服がぶらさがった舞台で女優は「わたしたち」を観客に託すように、一時紗幕の奥へ退場。
紗幕は映写スクリーンとなって、巣鴨プリズンを知らないという現代の若者の晴れやかな無責任、健全なる無知を映し出す。
「母なる大地」に眠る亡霊たちとの断絶。

次いでサンシャイン60の遠景、近景、コーラス、などが次々と映されるけれど、ここは映像に頼りすぎて説明が不足している感がいなめないが、そう思う一方で、既に起きたこと・現在起こっていることの狭間にあるあらゆる矛盾が、理解されることなく、纏められてしまうことなく共存しているという実情をそのまま突きつけられたという感覚がある。

気になったことはと言えば、
①観客席が壁のように見下ろす位置にあること。
この劇のコンセプトでいくと、観客は見下ろす側、権力、傍観、無関心の立場に立たされることになる。
高山明×飴屋法水のポストトークでも話題にのぼり、飴屋はこの眺望を受け入れがたい、という感想。
見下ろす、ということを批判的に見ているはずの作品が、観客をどちらにいればいいのか分からないという立場においやるのはまずいのではないか。
問題を突き付けるのはいい、が、いまいち、演出側がこのへんの視点をどう定めていたのかわからない。逆にナショナリズムを煽っているような錯覚を覚える瞬間さえある。
これはまずいんじゃないか?
②ことばがとらえにくく、単調にすぎる。
”声(ことば=音楽)”の演劇であることは分かるけれども、そのわりにいろいろ説明しているのでなんだかもったいない。あれだけの分量のモノローグを詠じきった暁子猫はすごいのだが、いかんせん単調さの中にも味がないので、とっかかりがない。

「わたしたちは、わたしたちは、わたしたちは、ここに、いる。」

もういいよ、それ、という程までに繰り返されるこのことばは、とりあえず家に帰るまで脳裏にこだまする。


F/Tは、3月29日まで。他にも”異色”が売り文句になるような面白い作品が満載。
目が覚める思いがするので、行くべきです。
と思いつつ、パリに戻る。

2009/02/28

数撃って敗北、ということもある。

2008年11月末にオデオン座で観たシェークスピア2作品。


①『オセロー』、Eric Vigner演出、美術、衣装の三役をこなす。

とにかく舞台はシンプル、モダン、というよりイマドキ、洒落ている。
オセロー演出ならではの黒・白のモノトーンを基調とした衣装(イアーゴーが白で、オセローは黒。バスチーユで観たオペラ『オテロー』では逆だった。こちらが正統派?)にひとひねり。
裏表にパンチングしたような壁を組み合わせた、とっても便利な舞台装置は、組み合わせによって高層ビルに見える。
照明が透けると、オフィスの窓から光が洩れる夜の六本木のようである。

なにしろ見えるものに眼がいく。

内容。現代的に「読み直し」を図ったというエリック・ヴィニェ、印象としてはバンリュー(郊外)の未成年カップルの痴話喧嘩、といったところである。
Ouais ouais, il est foutu, quoi!
という世界である。

それだけ。

それだけ?

という世界である。


②アトリエ・ベルチエでの『夏の夜の夢』、Yann-Joël Collin演出。

典型的な劇中劇構造を持つこのコメディ、さすがに舞台が至る所にある。
1・客席正面の空間。
2・客席後方、階段上の空間。
3・客席正面の空間に作った小舞台3種。
4・ハンディカメラで撮った映像を、客席正面にあるスクリーンに映す二次元の舞台。
(これによって、すぐそばにいる人物が、同時にもうひとつの舞台に存在するように見える・・・かもしれない)
5・カメラが潜入する楽屋。

あとは、仮装・余興・漫才・クレイジーホース、なんでもござれ。

うるさい、みにくい、中身がない。


腹が立って眠れなかったような記憶がある。
まあ、そんな日もある。

2009/02/27

「何を届けたくて演劇を作っているのか」

24日、シアターコクーンで『ピランデッロのヘンリー四世』を観る。
演出・白井晃、主演・串田和美。
ピランデルロの『エンリコ4世』のトム・ストッパードによる英訳からの翻訳劇。

原作を読んでいなかったのが、観劇後、是非読もう!という気になった。
翻訳もので原作を読みたくなるのは、良い演出の証拠だろうか。

現代版的な演出は大嫌いだが(どこかしら、ある昔の人気TVドラマを装ったようなところがあった気がしてならない)、ひとつ、ずばりと刺さるメッセージを受け取る。


「自分のために演じるんだよ」


周囲の思惑をよそに、実は病は治り、狂気を装いつづけていた男。
12年の間ヘンリー四世として生きてしまった空白は、もはや埋められるものではない。
仮面をかぶることが、すでに自分にとっての真実である。
そうして、死んだ仮面は生身の自分を守ってくれる。

虚構は真実の一部として存在するということ、正気は一種の狂気であることが、くるくる変わる視点の転換によって示される。

ふとポスターに惹かれて見に行った劇だったが、串田和美のヘンリーが渋い。
「この男、正気なのか狂気なのか。」

演じるという狂気、演じ得るという正気。


ひとりで芝居を見て帰っていく「スーツの男性」を見かけたりすると嬉しい、というのは串田の言。
この芝居、演じ疲れたサラリーマンだったら、ちょっと泣いてしまうかもしれない。

2009/02/26

たっぷり見せる

23日、歌舞伎さよなら公演・二月大歌舞伎を2つ観た。

2009年1月から16ヵ月かけて、歌舞伎座が取り壊されるまでの間に観客が選んだ「好きな歌舞伎20選」を上演していくらしい。11月にはがきで投票した結果はこちら。

1.勧進帳
2.義経千本桜
3.京鹿子娘道成寺
4.仮名手本忠臣蔵
5.白浪五人男
6.助六
7.桜姫東文章
8.源氏物語
9.連獅子
10.恋飛脚大和往来
11.菅原伝授手習鑑
12.三人吉三
13.阿古屋
14.俊寛
15.伽羅先代萩
16.暫
17.女殺油地獄
18.里見八犬伝
19.曽根崎心中
20.元禄忠臣蔵

『倭仮名在原系図 蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』は、一般の投票によるものではないらしいが、後半の大立廻りが派手なので、観客は大喜び。

三津五郎と若者たちのアクロバティックな攻防がひたすら続く。
器用にはしごを使って上ったり下りたり、ふりまわしたり。
無敵の蘭平に「やられた!」といわんばかりの若者たちのお決まりのポーズが可愛らしい。

すべて型が決まっているということには、緊迫感がない代わりに、笑いがある。若い衆の身体能力は素晴らしいけれども、それは微笑ましく、好もしいという印象を与えるものである。

一生主役は演じられないだろうに、とんぼ返りのためだけに歌舞伎に関わっているのだろうか・・・
という疑問も起こる。


でも、後半の幕が開いた瞬間、三津五郎を取り囲んだ梯子の陣はスペクタクルとして美しかったです。


『歌舞伎十八番の内 勧進帳』

能の演目にある『安宅』と同じ主題。都落ちの義経一行が山伏と強力に身をやつし、安宅の関を突破しようとする場面。富樫左衛門に見咎められた義経をかばうため、弁慶が知恵をふるう。

山伏に扮した4人の家臣、強力姿の義経は、状況設定の役割であり、客席に背を向ける時間が長い。

吉右衛門の弁慶と菊五郎の富樫が互いを探り合う場面に緊張感がある。

役者の貫禄である。

前の席に座っていたオジサンは、相当のファンらしく、屋号を叫ぶのに余念がない。幕も閉まり、弁慶が花道で最後の大見得を切る。彼の放った掛声に、会場に苦笑のざわめきが起こる。

「タップリ!!」

そう、今日はたっぷり、たのしんだ。

心から楽しんでいる観客のそばで見る劇は、ほんとうに愉しい。


2009/02/24

宇宙ステーション

21日、ふらりと入った世田谷美術館で、難波田史男展がやっていた。

世田谷区は難波田史男の出生の地であるため、ここに700点以上も収蔵しているらしい。
抽象画家の父・難波田龍起(たつおき)の二男。1941-1974年。
クレーやミロ、カンディンスキーを彷彿とさせる、色彩豊かな水彩画が多い。

初期の作品は、頼りなげな線画に、水分たっぷりといった感のうすくぼやけた色が塗られている。
『自己とのたたかいの日々』シリーズ、『夢の国』、『凧を上げる子供たち』など、なにやら精神分析にかけやすそうな様相を呈している。
線は境界であることをやめてしまっている。
うすめた朱肉がひろがった上に滲んだ黒色は、こころの内部に浮かぶ細かな「しみ」に見える。

内的世界の均衡がむやみに壊されたような初期作品に比べ、『モグラの道』(1963)あたりから外から影響を受け付けない独自の世界が出来上がった感がある。
11点1組の壁一面のエメラルドグリーン。
草花のような宇宙人のような動物のような、とぼけた表情の生き物が生活するめくるめく夢の世界は、無限に、力強く広がっている。

「世界は僕から逃げてゆく」

カフカやアポリネールに衝撃を受けたという、史男の言葉である。

70年代に入って線が消え、べったりした透明感のない油絵は、閉塞感か、新技法の模索か。
10年間で、みるみるうちに変わっていった様子がうかがわれる展示だった。

2005年に龍起+史男展を開いたオペラシティ・アートギャラリーは、難波田父子の作品を多く収蔵しているらしい。
まあ、ついこないだのこと、当分展覧会はないだろうな。


・・・と思ったら、まさに今、オペラシティでやっていた。。。
http://www.operacity.jp/ag/exh103.php

2009/02/22

しんとろとろりと見とれる男

2月15日、国立劇場で文楽2月公演、『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』。

1部よりも、3部の『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の方が随分注目株だったようだが、日曜のせいか何のせいか、満席。

老若男女、フツーの若者も着物の奥様も、お弁当片手に和んでいる。
ほのぼの。

『鑓の権三重帷子』は、近松門左衛門六十五歳の時に書かれた姦通物、1717年竹本座初演。

初演前月の7月、松江藩の茶道役・正井宗味の妻とよと、同藩近習小姓役・池田文治が姦通したために、大阪高麗橋上で「妻敵討ち」するという実話がもとになっている。


伊達男の笹野権三は、茶道の兄弟弟子・川側伴之丞に姦通の濡れ衣を着せられ、武士の面目のためには、不義の相手おさゐの夫・浅香市之進に討たれることを選ぶ。
伴之丞の妹・お雪は権三と恋仲、愛娘の婿探しのつもりが、おさゐは権三に嫉妬、人妻であるおさゐに言い寄る伴之丞は権三に嫉妬。

コルネイユとラシーヌが渾然一体となったような悲劇の筋書きである。

それが、軽妙な語りと人形の動きによってなんとも滑稽に見えてくるのがたのしい。
浅香市之進留守宅の段、数寄屋の段の大夫を務めた重要無形文化財保持者、竹本綱大夫のおさゐが心地よくも憎らしい。
「第一私が恋婿、オホホホホ何と合点して下さんすか」、「イヤあるある」、「エエいやらしい手が穢れた」などなど、”これぞ女”という節回しである。

伏見京橋妻敵討ちの段は、出演者が多く華やかな盆踊りが背景にある。
鳴り響くお囃子はどことなく残酷な響きがする。
斬り捨てられる二人が哀れというよりは、ちょっとこわい。

日本の伝統芸能は、とかく目をやる場所に事欠かないということに気がつく。
そして人形は、生身でないぶん滑稽で、そら恐ろしいことが分かる。

Philosophie de la scène

2月3日、Denis Guénoun主催のjournée d'étude。
今回の主役は、主催もお気に入りの、Esa Kirkkopelto。
P. Lacoue-labartheの指導のもと、ストラスブール大学でテーズを上梓した気鋭のフィンランド人である。

①ゲヌーン氏のイントロ、お得意の引用:C'est quelque chose qui arrive!
度々、クローデル曰くの”能との違い”を引き合いにだすが、実際話をきいていると、そうでもない。
というのも、"La scène se définit par la comparution des acteurs"という説を信じている以上、それは俳優であれ登場人物であれ、誰かの到来に相違ないからである。
エーサからこういう意見が出た時に、誰もがそう感じていたような雰囲気があったのは事実だ。
ゲヌーン氏としては、誰かが現れようとする瞬間、人と人とのうちに、ドラマが起こるという説による応酬。

②Thomas Dommangeの怒声に尋常ならざる頭痛がしたので、内容は割愛・・・
客席の観客は、立ち去る瞬間をひたすらに待つ。
それが演劇である、という名もないひとの言葉を思い出す。

だいたい、マイクで怒鳴るなよな・・・

③Nicolas Dutey: "abstraction qui marche"
ベケット&周辺の現代思想の研究を進めているニコラ。
scèneとは、l'oeil du corpsとl'oeil de l'espritの共存する、そして2つの目が同時に機能する場である。

ひとつ興味深かったのは、前述T. Dommangeのテーズからの引用で、"effondrement ontologique du spectateur"について。
居心地の悪さを訴える観客は、その時点ですでに観客ではないという。
なぜなら、l'oeil de l'espritで知覚する「舞台」を見失ってしまっているから。

④Schirin Nowrousian: "scène et son"
舞台において、音という要素は他の演劇的要素に対してどういう位置にあるのかという問い。
こたえはわかりません。
ギリシア悲劇の上演以降、姿を消した合唱隊の存在と関係・・・
するだろうことは今日、誰にでも想像がついておりますが。

⑤Esa Kirkkopelto: "Scène phénoménologique"
プラトンとカントに根拠を求める、"préséance"なるものの定義について。
芸術におけるミメーシスには限界があると思われるが、何がその臨界点を定めるのか?

みなさま、もう少し勉学に励んでから再考させていただきます。
敬具。

p.s. ひとつ言えることは、2006年、Institut finlandaisで上演された、キルッコペルト率いるフィンランド劇団の上演には、脳みそをグルグルさせてくれる力がみなぎっていた。強烈に面白かったです。
数人が同時に行う詩の朗読+観客との偶発的な接触(完全なる偶然性の追求。よくあるhappenning風味ではない。床に体育座りさせられた観客は、宇宙に散らばる小隕石となった俳優にとって、邪魔ですらあった・・・)。その上演のおわりに、怪しげな宇宙体験装置で、観客と一緒に遊んだのは、いったい何だったの??

舞台や観客席や幕や暗闇は必要ない。
どんどん先に行って欲しい、そうして、追いかけていきたい、と思わせられる人の一人である。
Esa, Bravo!

2009/02/01

シューベルトの遺言

1月31日、シューベルトの歌曲『冬の旅』を聴く。
Théâtre de la Villeのもうひとつのコンサート会場Les Abbessesで、こじんまりと居心地が良い。
日曜の午後にのんびり聴く室内音楽にぴったりである。

テノールは、外見のわりに若々しく張りのある声を持つWerner Güra。
ピアノは、かわいらしく軽い音を出すChristoph Berner。

シューベルトの死の前年に書かれたというこの『冬の旅』、失恋によって絶望した青年が孤独のうちに放浪をつづける、Wilhelm Müllerの暗く湿っぽい抒情詩を歌曲に仕立てたものである。
雪のつもった自分の頭が白く見え、死に近づいたと思ったが、その幻想も束の間、雪は溶けて、絶望したまま生きる残りの長い道のりを嘆く・・・

一体どれだけ暗いのか、と半ば楽しみにして行ってみたが、こころよく裏切られた。

木枯らし吹きすさぶ冬の旅路には、親密な逃げ場が欠かせない。
過ぎ去った幸福な日々、夢に見る春、光の踊る幻。
妄想と幻覚は、不幸にあってやけに美しく、魅力的である。

若い演奏家というせいもあるのか、乾いた孤独感よりも、自分の内側に逃げこむ時の親密な温もりと優しさが印象的。
蝶々の飛んでゆくのが見える気がする。

バリトンが歌うことの方が多いという『冬の旅』だが、この2人の演奏よりも、恐らくずいぶんと重みを増すだろうということは想像に難くない。
そうなると、自分に重ね合わせて書いたという、老いたシューベルトの姿が目に浮かぶのかもしれない。

が、話は青年の放浪であるので、この青臭い絶望もわるくない、かもしれない。

が、ベケットが愛した『冬の旅』は、バリトンのDietrich Fischer-Dieskauである。
やはり、の一言に尽きる。

2009/01/29

実際に見えないオイディプス

28日、ヴァンセンヌのCartoucherieで『オイディプス』を見る。
Théâtre de la Tempêteで、水曜日は10ユーロという安さのおかげもあるのか、満席。

演出は、1996年からThéâre de la Tempêteを指揮するフィリップ・アドリアン。
ソポクレスの『コロノスのオイディプス』の中に、回想的フラッシュバックの形で『オイディプス王』を嵌め込んだ。

前半、『コロノス』の部分が、『オイディプス王』を語るための口実にしか見えない茶番劇風なのが残念だったが、後半部分、実際に盲目の役者演じるオイディプスが、運命に導かれて一人、悠然と歩き去る姿は圧巻である。
ここで、この役者(Bruno Netter)がコロノスのオイディプスを演じた意義を読み取ることができる。

回想の『オイディプス王』は、格段に華やかで芸が細かい。
コーラス=民を演じる女性たちの「声」の演出が、悲劇・謎・悪夢というテーマを匂わせて、とてもいい。
遠くから響いてくるような、弱音器をかけたような、叫びのコーラスには、電子音響とは違う、格別の生々しさがある。
楽器なんかは、どうしたって舞台上で演奏すべきだと思う。
コンサートでもなし、少し拙いくらいがちょうどいいんじゃないだろうか?

もうひとつ面白いのは、怪しげな人形を登場させていたこと。
目をくりぬいたオイディプス王の案内役として連れてこられる2人の娘、イスメーネーとアンティゴネーは本物の子供かと見紛うような真実味のある人形で表現される。
一瞬、本物だと思ってしまった分だけ、人形だと分かった途端、救いがたいオイディプスの悲劇をじわりと実感する。


昨今、舞台裏の映像を舞台上のスクリーンに映すのが流行しているようだが、完全に間違っていると思う。
TVのヴァラエティ番組の悪しき影響としか思えない。
立体が急に平面化した時の、あの冷え冷えとした感じをどうしろというのか。

幕が下りる直前に出てきた、わざとらしく現代風の服を着せられた役者には憐れみを感じる。
せっかくの迫力と説得力が台無し・・・

ハンディを持った役者に生の声で伝えさせる、と言う演出家アドリアンの「賭け」は、確かにある部分で観客の心に触れるけれども、なにかまだ、卑屈なつくり笑いで覆い隠そうとしているのが本当にもったいない。

直球で勝負しろ!!

救いのないものは救いのないように描いてほしい。
それでも、観客はついてくるんじゃないか?
それでも、あの役者たちはやっていけるんじゃないのか?

2009/01/25

悲劇の日

1月21日、エコール・ノルマルとオデオン座主宰のコロックに参加。
題目は、"La tragédie, domaine public"。

①ノルマルのディレクターであるカント=スペルベールのイントロに始まり、
②コレージュ・ドゥ・フィロゾフィ率いるフロランス・デュポンの悲劇の伝統的解釈を聞き、
③"Monsieur le ministre"、ドヴァブレスの政治家レトリックで眠くなり、
④ヴァンパイアのようなハワード・バーカーと、オデオン座監査ダニエル・ロアイザの対談で午前中を締めくくる。ここでロアイザは、プラトン、アイスキュロスを訳しきる腕前のギリシア語だけでなく、英語も堪能であることを披露。フランス語で話すことにより落着きを崩しかけるバーカーよりも、燦然と輝いて見える。が、通訳に頼り切らないバーカーも偉い。

⑤午後は、見事な白髪を蓄えたジャン・ボラックの文学よりな見解に始まり、
⑥Médicis étranger受賞のダニエル・メンデルソンのナイーヴなまでの率直さに感心し、
⑦シェロー演出のフェードルを演じた理知的な女優、ドミニク・ブランの回答の正確さと謙遜に感動し、
⑧オリヴィエ・ピィの喜劇的なさえずりを拝聴した後は、
⑨ポンピドゥ・センター・アルマのディレクター、カトリーヌ・グルニエの話よりも現代存命芸術家たちの悲劇的(だったのか?)作品群に見入り、
⑩本日のトリを飾るジョージ・スタイナーによる一大演説で、感情を浄化される。最後まで聞いて良かったと思える。


本日の名言 :
"Le langage est la prostituée transcendante."

悲劇とは、言語という罠に陥る一種のデカダンスではないか、という仮定のもと、言語の非・倫理性について語ったG. スタイナーの結論である。
言語劇としての悲劇が辿り着いたのは、ベケットの『わたしじゃない』(1973)に見られる「口」のおしゃべりだと言っていた。
身体性を極限まで否定した『わたしじゃない』の後、『あのとき』(1976)で身体は言葉と運動を完全に失い、『あしおと』(1976)で反復運動を発見するのだとすれば、ここには言語劇の終結と、「運動イメージ」としての演劇への再生が見られる・・・かもしれない。


本日の迷言 :
"Pour moi, même Eschyle est catholique!"

半分本気にとれる程、「わたしの神」を主張していたO. ピィ。
司会は「われらが”ノルマル・シュップで・・・”と苦笑、現役ノルマリアンは憤りを隠せず。
2008年夏に演出した『オレステイア』の彼なりの目的が、本当に"mettre en scène le hors du temps"であったとすれば、時間をその根源的要因とするle tragiqueはあの演出に存在しなかったということか。
そして、”あり得ない演出をすることによって、逆説的に現実らしさを追求”しようという彼の狙いは果たして成功していたのか?
歩きまわる真紅のイピゲネイアと、アガメムノンが黒塗りのリムジンに乗って登場した場面は、スペクタクルとして記憶に焼きついているけれど・・・


本日の明言 :
"le tragique est dans l'écoute silencieuse."

シェロー演出による、デュラスの『苦悩』に出演したばかりのD. ブランならではの見解か。賛同します!!

2009/01/15

Rouault×Pollock

マドレーヌ寺院そばのPinacothèque de Parisで開催されている、2つの展覧会に行ってきた。
生々しい力強さに飢えているいま、なかなか嬉しい取り合わせだ。

まず一つ目は、Jackson Pollock et le chamanisme。

ポロックは、ユング派の精神分析医に診断を受け、絵を描きなさいと言われたらしい。
ユング自身による、1935年ロンドンのクリニック・タヴィストックでの講演にそんな話があった。
”揺れ”を感じたら、心に浮かんだことをそのまま書きとめておきなさいと、ある患者に助言したという。

数種の絵の具が流れ落ち、飛び散ったようなdrippingsという手法の絵には見覚えがあった。
以前ポンピドゥで見かけたときには、確かにどこかに受け入れがたい感触があったが、鷲に扮したシャーマンの踊りを暗闇で呆然と眺めたあとに出会うと、何かしらシンパシーのようなものが感じられる。
羽ばたく翼、反復横跳びの一定のリズム。
バッサバッサ。たっくたっく。
意識が分散していくのを感じる。

自動筆記ならぬ自動素描は、アントナン・アルトーの絵を彷彿とさせる。
どぎつい配色で集団的エクスタシーを描いた絵は、「残酷」の精神に通じているようだ。
そこかしこに配置されたアンドレ・マッソンの、色彩とタッチの繊細さが好対照をなしていた。

二つ目。Georges Rouault。

力強い線が印象的だが、とりわけポートレートは魅力的だった。
べったりと太く黒い線で囲まれた目に、なんともいえない表情が浮かぶ。
キリストの受難のシリーズには、愛らしささえある。
壁にかけておきたいくらいだ。
無骨であたたかい。

あんなに酸素が薄い空間でなきゃ、あと1時間見れたのに。
ふらふらと群衆を15分で駆け抜けたことが悔やまれる。

2009/01/10

回想 - ピーター・ブルックによる『ロッカバイ』

ベケット生誕100年祭、Beckett 2006開催中のパリで観たブルック演出のベケット劇。
『ロッカバイ』、『芝居 下書きI』、『言葉なき行為 II』の三本立て。
場所はお馴染み、Bouffes du Nord劇場。

束縛された身体の不自由と、それでもなお生きることをやめない生身の身体の間を行き来する三作品。
『ロッカバイ』におけるブルックの演出には、こうした特徴を非常にうまく利用したと思われる工夫があった。
揺り椅子の上に磔になったような老女が、揺られながら自分の声を聞いている、という短い劇だが、ブルックは、普通の椅子を用い、なんと俳優みずからが椅子を揺らした。
椅子が倒れないぎりぎりの角度で、足を使ってバランスをとるのだ。
何か仕掛けがあるのかと思ったが、ブルックのこと、そんなケチな真似はしないだろう。
長い時間ではないが、これは相当疲れるし、うっかり倒れたら全ておじゃんである。

落ち着いたGeneviève Mnichの語りの声と、極限状態にある身体という対比が美しい。
不可能と可能の間で揺れるベケット的身体の見事な表出であったと思う。