2009/03/07

F/T

3月5日、にしすがも創造舎にて、高山明の演出で『雲。家。』を観る。

東京都文化発信プロジェクトの一環、Festival/Tokyoという舞台芸術祭のための再演。

2004年ノーベル賞を受賞したオーストリア人作家Elfriede Jelinekの戯曲。
Port Bの高山明は、同時に上演(?)するツアー・パフォーマンス『サンシャイン63』を絡ませ、日本独自の問題を浮き彫りにしようと試みる。
池袋のサンシャイン60ビルがある場所は、いわゆる巣鴨プリズン跡地。
東条英機をはじめとする第二次大戦の戦犯が処刑された場所である。
保守政治、ナショナリズムを痛烈に批判したイェリネクのテクストに重ねて、戦後日本の行方をさがす、といったところだろうか。

舞台は、インスタレーションを得意とする高山明ならでは、なのだろうか、暗く冷たく、美しい。
本来ありもしないビルの3階層(サンシャイン63-60=3)が紗幕の向こうにそびえ、「わたしたちは・・・わたしたちは・・・」と百篇もつぶやきながら女の亡霊が行ったり来たり。
時間をかけて、前舞台まで下りてくる。

幽霊然とした女が足を引きずり右往左往する姿が、サミュエル・ベケットの『あしおと』を彷彿とさせる。
というか、すんごく似ている。

ぼろ服がぶらさがった舞台で女優は「わたしたち」を観客に託すように、一時紗幕の奥へ退場。
紗幕は映写スクリーンとなって、巣鴨プリズンを知らないという現代の若者の晴れやかな無責任、健全なる無知を映し出す。
「母なる大地」に眠る亡霊たちとの断絶。

次いでサンシャイン60の遠景、近景、コーラス、などが次々と映されるけれど、ここは映像に頼りすぎて説明が不足している感がいなめないが、そう思う一方で、既に起きたこと・現在起こっていることの狭間にあるあらゆる矛盾が、理解されることなく、纏められてしまうことなく共存しているという実情をそのまま突きつけられたという感覚がある。

気になったことはと言えば、
①観客席が壁のように見下ろす位置にあること。
この劇のコンセプトでいくと、観客は見下ろす側、権力、傍観、無関心の立場に立たされることになる。
高山明×飴屋法水のポストトークでも話題にのぼり、飴屋はこの眺望を受け入れがたい、という感想。
見下ろす、ということを批判的に見ているはずの作品が、観客をどちらにいればいいのか分からないという立場においやるのはまずいのではないか。
問題を突き付けるのはいい、が、いまいち、演出側がこのへんの視点をどう定めていたのかわからない。逆にナショナリズムを煽っているような錯覚を覚える瞬間さえある。
これはまずいんじゃないか?
②ことばがとらえにくく、単調にすぎる。
”声(ことば=音楽)”の演劇であることは分かるけれども、そのわりにいろいろ説明しているのでなんだかもったいない。あれだけの分量のモノローグを詠じきった暁子猫はすごいのだが、いかんせん単調さの中にも味がないので、とっかかりがない。

「わたしたちは、わたしたちは、わたしたちは、ここに、いる。」

もういいよ、それ、という程までに繰り返されるこのことばは、とりあえず家に帰るまで脳裏にこだまする。


F/Tは、3月29日まで。他にも”異色”が売り文句になるような面白い作品が満載。
目が覚める思いがするので、行くべきです。
と思いつつ、パリに戻る。