2009/03/30

ゆっくり語るベケット

ベケット劇の2公演。

①21日、パリ日本文化会館にて。
舞踏との二本立てで『あのとき』、『言葉なき行為II』、『ロッカバイ』。

演出:Philippe Lanton
振付:Katsura Kan (桂勘)
出演:Le Cartel

全体的にぼんやりした印象。

・『あのとき』の声は、よどみなく機械的に流れてくるものなのではないだろうか??
文節をくぎって、分かりやすく語ることで観客の耳には言葉として残るけれども、あれだけ間延びしていたら、もとから上演に向かないとされる戯曲の何もかもを駄目にしてしまう気がするが・・・。
・『言葉なき行為II』は、躁鬱的な男二人の対比が弱くてこれも面白みに欠ける。
その上、相違を音楽によって表わそうとしているのが現代の演出の逃げとも感じられ、より不快である。行為で表わさなくてどうするんだ?
2006年Bouffes du Nordでのブルック演出は、本当に滑稽で悲愴で、それぞれともかくも生きている二人に愛着を感じたものである。
・『ロッカバイ』も同様、テンポが悪くてとらえどころがない。眠い。
"Encore"と言うたびに近づいてくる工夫もあるが、時間もかかってますます間延びしていた。


②28日、Athénée-Théâtre Louis Jouvetにて『ゴドーを待ちながら』。

演出:Bernard Levy
ヴラジーミル:Gilles Arnbona
エストラゴン:Thierry Bosc
ラッキー:Georges Ser
ポッツォ:Patrick Zimmermann
男の子:Garlan Le Martelot

ここの劇場のGrande Salleはベケット劇を上演するには舞台の奥行きがありすぎるだろうと思っていたが、灰色の壁で舞台を囲んで狭めてあった。
究極の二択。
舞台が広すぎるとおかしい。というのも、一本の道と一本の木があるきりの空間が身上の戯曲であるのに、どこへでも行けそうな様相になってしまう。
かといって、わざわざ区切っても、空間的な境界を感じさせないのが身上の戯曲が台無し。
演出だけでなく、劇場も選んでしまうベケットの気難しさである。

内容的にも演出的にもがんじがらめの状況をどう打破するのか?
(打破する必要はあるのか?)

幕の上がる前、ノスタルジックな音楽とともに、紗幕にテクストを映写。
(これから始まるのは、むかしむかしの物語・・・と言わんばかり。)
ポッツォがマイクを持つ。
ラッキーにスポットライトが当たる。
ひとつひとつの単語をゆっくり発音して、かの狂乱のモノローグをきちんと聴かせつつ、笑いをとる。
(娯楽番組の司会者&出演者としてのポッツォとラッキー)
蹴る、投げる、転ぶ、などの行為には全てマイクを通した効果音がはいる。(不快。)


ベルナール・レヴィの試みは、ベケットを古典文学として過去へ追いやることなんだろうか。
『ゴドー』をtélé-réalitéにしてしまうことで得られるものって何だ?
果たして現代演劇はそうすることでベケット演劇を乗り越えられるのか?
ベケットを理解させる上演をする、ということに意味はあるのか?

滑稽でもの哀しく、何だかわからないものをそのまま劇場に提出したのがベケットではないのか。

・・・あるいはアテネ劇場でゴドーを観る、ということ自体が完全に間違っているとも思う。

2009/03/28

『繻子の靴』付記

・・・10時間かかるあれほどの上演を、学生料金15ユーロで観られたことに感動しました。
換算しても2000円以内に収まってしまう。

スペイン黄金時代を字義通りに演出した、すべて金ピカの舞台装置(でもハリボテで裏は煤けていることを見せるのが面白い)、オセローさながら嫉妬に燃えるムーア人ドン・カミーユとドーニャ・プルエーズを取り囲む炎の演出、18人という俳優に3人の楽団。
オデオン座はお金があるなあ、と思わずにいられない。

フランスってすごいですね。やはり。

2009/03/27

『繻子の靴』という世界

25日、26日と二夜連続でO. ピィ演出の『繻子の靴・完全版』を観た。

一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。

ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。

世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。

技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。

楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。


『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。

そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。

舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。

"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)

それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。

2009/03/11

そういえば、リア王

2007年秋、ナンテール市のアマンディエ劇場でLE ROI LEARを観た。
演出は、Jean-François SIVADIER。

面白かったこと、
①木製の舞台が、途中、人の手で分割されてばらばらの舞台を作りだし、その上を俳優があぶなっかしげに動き回る。
そのほかには何もないシンプルな舞台装置だが、土地分割をもとに始まったリアの悲劇が裏打ちされて、うまい。しかも利便がいい。
②コーディーリア演じる女優のNorah Kriefが、発狂寸前のリアの旅路を支える道化役も演じている。
舞台上で道化服を脱ぐと、ドレスを纏った王の娘となって父を迷いから覚ます。
なにしろ可愛らしい道化だったので、ほほえましくも感動的である。

今回の主役は、”無”をとりまくコーディーリア×道化だったらしく、パンフレットにはアンリ・ミショーの詩が引用されている。


Un jour.
Un jour, bientôt peut-être.
Un jour j'arracherai l'ancre qui tient mon navire loin des mers.
Avec la sorte de courage qu'il faut être rien et rien que rien,
je lâcherai ce qui paraissait m'être indissolubrement proche.
Je le trancherai, je le renverserai, je le romprai, je le ferai dégringoler.
D'un coup égorgeant ma misérable pudeur, mes misérables combinaisons et enchaînements de "fil en aiguille".
Vidé de l'abcès d'être quelqu'un, je boirai à nouveau l'espace nourricier.
A coup de ridicules, de déchéances (qu'est-ce que la déchéance?),
par éclatement, par vide, par une totale dissipation-dérision-purgation,
j'expulserai de moi la forme qu'on croyait si bien attachée, composée,
coordonnée, assortie à mon entourage et à mes semblables, si dignes,
si dignes, mes semblables.
Réduit à une humilité de catastrophe, à un nivellement parfait comme après une intense trouille.
Ramené au-dessous de toute mesure à mon rang réel, au rang infime que je ne sais quelle idée-ambition m'avait fait déserté.
Anéanti quant à la hauteur, quant à l'estime.
Perdu en un endroit lointain (ou même pas), sans nom, sans identité.

CLOWN, abattant dans la risée, dans le grotesque, dans l'esclaffement,
le sens que contre toute lumière je m'étais fait de mon importance.
Je plongerai.
Sans bourse dans l'infini-esprit sous-jacent ouvert à tous, ouvert moi-même à une nouvelle incroyable rosée
A force d'être nul
et ras...
et risible...


・・・出典が書いてない。探そう。

2008年夏の『オレステイア』(O. ピィ演出)では、オレストの父アガメムノン演じるPhilippe Girardが、アテナの神殿でオレストを擁護するアポロンも演じていた。
こういうのはよくある演出なのかもしれないが、演出の意図が明快で分かりやすく、気づいた瞬間に、にっこりできるので楽しい。

2009/03/07

F/T

3月5日、にしすがも創造舎にて、高山明の演出で『雲。家。』を観る。

東京都文化発信プロジェクトの一環、Festival/Tokyoという舞台芸術祭のための再演。

2004年ノーベル賞を受賞したオーストリア人作家Elfriede Jelinekの戯曲。
Port Bの高山明は、同時に上演(?)するツアー・パフォーマンス『サンシャイン63』を絡ませ、日本独自の問題を浮き彫りにしようと試みる。
池袋のサンシャイン60ビルがある場所は、いわゆる巣鴨プリズン跡地。
東条英機をはじめとする第二次大戦の戦犯が処刑された場所である。
保守政治、ナショナリズムを痛烈に批判したイェリネクのテクストに重ねて、戦後日本の行方をさがす、といったところだろうか。

舞台は、インスタレーションを得意とする高山明ならでは、なのだろうか、暗く冷たく、美しい。
本来ありもしないビルの3階層(サンシャイン63-60=3)が紗幕の向こうにそびえ、「わたしたちは・・・わたしたちは・・・」と百篇もつぶやきながら女の亡霊が行ったり来たり。
時間をかけて、前舞台まで下りてくる。

幽霊然とした女が足を引きずり右往左往する姿が、サミュエル・ベケットの『あしおと』を彷彿とさせる。
というか、すんごく似ている。

ぼろ服がぶらさがった舞台で女優は「わたしたち」を観客に託すように、一時紗幕の奥へ退場。
紗幕は映写スクリーンとなって、巣鴨プリズンを知らないという現代の若者の晴れやかな無責任、健全なる無知を映し出す。
「母なる大地」に眠る亡霊たちとの断絶。

次いでサンシャイン60の遠景、近景、コーラス、などが次々と映されるけれど、ここは映像に頼りすぎて説明が不足している感がいなめないが、そう思う一方で、既に起きたこと・現在起こっていることの狭間にあるあらゆる矛盾が、理解されることなく、纏められてしまうことなく共存しているという実情をそのまま突きつけられたという感覚がある。

気になったことはと言えば、
①観客席が壁のように見下ろす位置にあること。
この劇のコンセプトでいくと、観客は見下ろす側、権力、傍観、無関心の立場に立たされることになる。
高山明×飴屋法水のポストトークでも話題にのぼり、飴屋はこの眺望を受け入れがたい、という感想。
見下ろす、ということを批判的に見ているはずの作品が、観客をどちらにいればいいのか分からないという立場においやるのはまずいのではないか。
問題を突き付けるのはいい、が、いまいち、演出側がこのへんの視点をどう定めていたのかわからない。逆にナショナリズムを煽っているような錯覚を覚える瞬間さえある。
これはまずいんじゃないか?
②ことばがとらえにくく、単調にすぎる。
”声(ことば=音楽)”の演劇であることは分かるけれども、そのわりにいろいろ説明しているのでなんだかもったいない。あれだけの分量のモノローグを詠じきった暁子猫はすごいのだが、いかんせん単調さの中にも味がないので、とっかかりがない。

「わたしたちは、わたしたちは、わたしたちは、ここに、いる。」

もういいよ、それ、という程までに繰り返されるこのことばは、とりあえず家に帰るまで脳裏にこだまする。


F/Tは、3月29日まで。他にも”異色”が売り文句になるような面白い作品が満載。
目が覚める思いがするので、行くべきです。
と思いつつ、パリに戻る。