2009/01/29

実際に見えないオイディプス

28日、ヴァンセンヌのCartoucherieで『オイディプス』を見る。
Théâtre de la Tempêteで、水曜日は10ユーロという安さのおかげもあるのか、満席。

演出は、1996年からThéâre de la Tempêteを指揮するフィリップ・アドリアン。
ソポクレスの『コロノスのオイディプス』の中に、回想的フラッシュバックの形で『オイディプス王』を嵌め込んだ。

前半、『コロノス』の部分が、『オイディプス王』を語るための口実にしか見えない茶番劇風なのが残念だったが、後半部分、実際に盲目の役者演じるオイディプスが、運命に導かれて一人、悠然と歩き去る姿は圧巻である。
ここで、この役者(Bruno Netter)がコロノスのオイディプスを演じた意義を読み取ることができる。

回想の『オイディプス王』は、格段に華やかで芸が細かい。
コーラス=民を演じる女性たちの「声」の演出が、悲劇・謎・悪夢というテーマを匂わせて、とてもいい。
遠くから響いてくるような、弱音器をかけたような、叫びのコーラスには、電子音響とは違う、格別の生々しさがある。
楽器なんかは、どうしたって舞台上で演奏すべきだと思う。
コンサートでもなし、少し拙いくらいがちょうどいいんじゃないだろうか?

もうひとつ面白いのは、怪しげな人形を登場させていたこと。
目をくりぬいたオイディプス王の案内役として連れてこられる2人の娘、イスメーネーとアンティゴネーは本物の子供かと見紛うような真実味のある人形で表現される。
一瞬、本物だと思ってしまった分だけ、人形だと分かった途端、救いがたいオイディプスの悲劇をじわりと実感する。


昨今、舞台裏の映像を舞台上のスクリーンに映すのが流行しているようだが、完全に間違っていると思う。
TVのヴァラエティ番組の悪しき影響としか思えない。
立体が急に平面化した時の、あの冷え冷えとした感じをどうしろというのか。

幕が下りる直前に出てきた、わざとらしく現代風の服を着せられた役者には憐れみを感じる。
せっかくの迫力と説得力が台無し・・・

ハンディを持った役者に生の声で伝えさせる、と言う演出家アドリアンの「賭け」は、確かにある部分で観客の心に触れるけれども、なにかまだ、卑屈なつくり笑いで覆い隠そうとしているのが本当にもったいない。

直球で勝負しろ!!

救いのないものは救いのないように描いてほしい。
それでも、観客はついてくるんじゃないか?
それでも、あの役者たちはやっていけるんじゃないのか?

2009/01/25

悲劇の日

1月21日、エコール・ノルマルとオデオン座主宰のコロックに参加。
題目は、"La tragédie, domaine public"。

①ノルマルのディレクターであるカント=スペルベールのイントロに始まり、
②コレージュ・ドゥ・フィロゾフィ率いるフロランス・デュポンの悲劇の伝統的解釈を聞き、
③"Monsieur le ministre"、ドヴァブレスの政治家レトリックで眠くなり、
④ヴァンパイアのようなハワード・バーカーと、オデオン座監査ダニエル・ロアイザの対談で午前中を締めくくる。ここでロアイザは、プラトン、アイスキュロスを訳しきる腕前のギリシア語だけでなく、英語も堪能であることを披露。フランス語で話すことにより落着きを崩しかけるバーカーよりも、燦然と輝いて見える。が、通訳に頼り切らないバーカーも偉い。

⑤午後は、見事な白髪を蓄えたジャン・ボラックの文学よりな見解に始まり、
⑥Médicis étranger受賞のダニエル・メンデルソンのナイーヴなまでの率直さに感心し、
⑦シェロー演出のフェードルを演じた理知的な女優、ドミニク・ブランの回答の正確さと謙遜に感動し、
⑧オリヴィエ・ピィの喜劇的なさえずりを拝聴した後は、
⑨ポンピドゥ・センター・アルマのディレクター、カトリーヌ・グルニエの話よりも現代存命芸術家たちの悲劇的(だったのか?)作品群に見入り、
⑩本日のトリを飾るジョージ・スタイナーによる一大演説で、感情を浄化される。最後まで聞いて良かったと思える。


本日の名言 :
"Le langage est la prostituée transcendante."

悲劇とは、言語という罠に陥る一種のデカダンスではないか、という仮定のもと、言語の非・倫理性について語ったG. スタイナーの結論である。
言語劇としての悲劇が辿り着いたのは、ベケットの『わたしじゃない』(1973)に見られる「口」のおしゃべりだと言っていた。
身体性を極限まで否定した『わたしじゃない』の後、『あのとき』(1976)で身体は言葉と運動を完全に失い、『あしおと』(1976)で反復運動を発見するのだとすれば、ここには言語劇の終結と、「運動イメージ」としての演劇への再生が見られる・・・かもしれない。


本日の迷言 :
"Pour moi, même Eschyle est catholique!"

半分本気にとれる程、「わたしの神」を主張していたO. ピィ。
司会は「われらが”ノルマル・シュップで・・・”と苦笑、現役ノルマリアンは憤りを隠せず。
2008年夏に演出した『オレステイア』の彼なりの目的が、本当に"mettre en scène le hors du temps"であったとすれば、時間をその根源的要因とするle tragiqueはあの演出に存在しなかったということか。
そして、”あり得ない演出をすることによって、逆説的に現実らしさを追求”しようという彼の狙いは果たして成功していたのか?
歩きまわる真紅のイピゲネイアと、アガメムノンが黒塗りのリムジンに乗って登場した場面は、スペクタクルとして記憶に焼きついているけれど・・・


本日の明言 :
"le tragique est dans l'écoute silencieuse."

シェロー演出による、デュラスの『苦悩』に出演したばかりのD. ブランならではの見解か。賛同します!!

2009/01/15

Rouault×Pollock

マドレーヌ寺院そばのPinacothèque de Parisで開催されている、2つの展覧会に行ってきた。
生々しい力強さに飢えているいま、なかなか嬉しい取り合わせだ。

まず一つ目は、Jackson Pollock et le chamanisme。

ポロックは、ユング派の精神分析医に診断を受け、絵を描きなさいと言われたらしい。
ユング自身による、1935年ロンドンのクリニック・タヴィストックでの講演にそんな話があった。
”揺れ”を感じたら、心に浮かんだことをそのまま書きとめておきなさいと、ある患者に助言したという。

数種の絵の具が流れ落ち、飛び散ったようなdrippingsという手法の絵には見覚えがあった。
以前ポンピドゥで見かけたときには、確かにどこかに受け入れがたい感触があったが、鷲に扮したシャーマンの踊りを暗闇で呆然と眺めたあとに出会うと、何かしらシンパシーのようなものが感じられる。
羽ばたく翼、反復横跳びの一定のリズム。
バッサバッサ。たっくたっく。
意識が分散していくのを感じる。

自動筆記ならぬ自動素描は、アントナン・アルトーの絵を彷彿とさせる。
どぎつい配色で集団的エクスタシーを描いた絵は、「残酷」の精神に通じているようだ。
そこかしこに配置されたアンドレ・マッソンの、色彩とタッチの繊細さが好対照をなしていた。

二つ目。Georges Rouault。

力強い線が印象的だが、とりわけポートレートは魅力的だった。
べったりと太く黒い線で囲まれた目に、なんともいえない表情が浮かぶ。
キリストの受難のシリーズには、愛らしささえある。
壁にかけておきたいくらいだ。
無骨であたたかい。

あんなに酸素が薄い空間でなきゃ、あと1時間見れたのに。
ふらふらと群衆を15分で駆け抜けたことが悔やまれる。

2009/01/10

回想 - ピーター・ブルックによる『ロッカバイ』

ベケット生誕100年祭、Beckett 2006開催中のパリで観たブルック演出のベケット劇。
『ロッカバイ』、『芝居 下書きI』、『言葉なき行為 II』の三本立て。
場所はお馴染み、Bouffes du Nord劇場。

束縛された身体の不自由と、それでもなお生きることをやめない生身の身体の間を行き来する三作品。
『ロッカバイ』におけるブルックの演出には、こうした特徴を非常にうまく利用したと思われる工夫があった。
揺り椅子の上に磔になったような老女が、揺られながら自分の声を聞いている、という短い劇だが、ブルックは、普通の椅子を用い、なんと俳優みずからが椅子を揺らした。
椅子が倒れないぎりぎりの角度で、足を使ってバランスをとるのだ。
何か仕掛けがあるのかと思ったが、ブルックのこと、そんなケチな真似はしないだろう。
長い時間ではないが、これは相当疲れるし、うっかり倒れたら全ておじゃんである。

落ち着いたGeneviève Mnichの語りの声と、極限状態にある身体という対比が美しい。
不可能と可能の間で揺れるベケット的身体の見事な表出であったと思う。