2009/01/25

悲劇の日

1月21日、エコール・ノルマルとオデオン座主宰のコロックに参加。
題目は、"La tragédie, domaine public"。

①ノルマルのディレクターであるカント=スペルベールのイントロに始まり、
②コレージュ・ドゥ・フィロゾフィ率いるフロランス・デュポンの悲劇の伝統的解釈を聞き、
③"Monsieur le ministre"、ドヴァブレスの政治家レトリックで眠くなり、
④ヴァンパイアのようなハワード・バーカーと、オデオン座監査ダニエル・ロアイザの対談で午前中を締めくくる。ここでロアイザは、プラトン、アイスキュロスを訳しきる腕前のギリシア語だけでなく、英語も堪能であることを披露。フランス語で話すことにより落着きを崩しかけるバーカーよりも、燦然と輝いて見える。が、通訳に頼り切らないバーカーも偉い。

⑤午後は、見事な白髪を蓄えたジャン・ボラックの文学よりな見解に始まり、
⑥Médicis étranger受賞のダニエル・メンデルソンのナイーヴなまでの率直さに感心し、
⑦シェロー演出のフェードルを演じた理知的な女優、ドミニク・ブランの回答の正確さと謙遜に感動し、
⑧オリヴィエ・ピィの喜劇的なさえずりを拝聴した後は、
⑨ポンピドゥ・センター・アルマのディレクター、カトリーヌ・グルニエの話よりも現代存命芸術家たちの悲劇的(だったのか?)作品群に見入り、
⑩本日のトリを飾るジョージ・スタイナーによる一大演説で、感情を浄化される。最後まで聞いて良かったと思える。


本日の名言 :
"Le langage est la prostituée transcendante."

悲劇とは、言語という罠に陥る一種のデカダンスではないか、という仮定のもと、言語の非・倫理性について語ったG. スタイナーの結論である。
言語劇としての悲劇が辿り着いたのは、ベケットの『わたしじゃない』(1973)に見られる「口」のおしゃべりだと言っていた。
身体性を極限まで否定した『わたしじゃない』の後、『あのとき』(1976)で身体は言葉と運動を完全に失い、『あしおと』(1976)で反復運動を発見するのだとすれば、ここには言語劇の終結と、「運動イメージ」としての演劇への再生が見られる・・・かもしれない。


本日の迷言 :
"Pour moi, même Eschyle est catholique!"

半分本気にとれる程、「わたしの神」を主張していたO. ピィ。
司会は「われらが”ノルマル・シュップで・・・”と苦笑、現役ノルマリアンは憤りを隠せず。
2008年夏に演出した『オレステイア』の彼なりの目的が、本当に"mettre en scène le hors du temps"であったとすれば、時間をその根源的要因とするle tragiqueはあの演出に存在しなかったということか。
そして、”あり得ない演出をすることによって、逆説的に現実らしさを追求”しようという彼の狙いは果たして成功していたのか?
歩きまわる真紅のイピゲネイアと、アガメムノンが黒塗りのリムジンに乗って登場した場面は、スペクタクルとして記憶に焼きついているけれど・・・


本日の明言 :
"le tragique est dans l'écoute silencieuse."

シェロー演出による、デュラスの『苦悩』に出演したばかりのD. ブランならではの見解か。賛同します!!