2009/06/14

週末ハシゴ=静岡+中野

あまりにも久しぶりに観劇。
生気がよみがえる感あり。

13日、SPACの春の芸術祭、”週末ハシゴ”なるものに則って三演目を観る。


①『半人半獅子ヴィシュヌ神』
ゴーパル・ヴェヌ率いる一座によるインドの古典舞踊クーリヤッタム。
今回はその一分野であるナンギャール・クートゥーで、演奏者のほか演じるのは女性一人である。

ヴィシュヌ神顕現のお話を体、手、眼で語る。
何役も一人で表現するが、表情、仕草が端的に誰を体現しているのかを示している。
女神の慈愛のほほえみ、魔王の尊大な居姿、敬虔な息子の低姿勢。
ヴィシュヌ神の飛び出た眼と全身の痙攣。血走った眼がぎょろぎょろと動くのは、魔王よりも獣らしい。
象に蛇に、次々と言葉もなしに役を演じていく。太鼓のリズム・強弱がそれに応じる。


時折、場面解説に字幕が出たが、どうもしっくりこない。
何もなければ分からない部分もあるかもしれないが、至極単純な話であり、始まる前にゴーパル・ヴェヌ氏が説明をしてくれたものなので、なんとかなる程度でもある。

質疑応答で「動作には手話のように意味があるのか」という質問が出るほど意味深長な動きは、カピラさんの応答では「手の動きには文法さえあって、全てのセンテンスを語ることができる」そうだから、インドの人々には言葉のように動作を読むことができるのかもしれない。
でも日本語の電光掲示板が、素晴らしい清浄な空気を持つ”楕円堂”に溶け込んだカピラさんの神聖さを損なってしまった気がしてならないのですが・・・


印象的だったのは、ポストトークに出てきた時のカピラさんの女性らしさ。
かわいらしい、とさえ思ってしまう。
体の大きさが違って見えるほど、神々を演じている間は中性に近づいているのだろう。
舞台をあとにする際の小さな祈りにも、感銘を受ける。
剣道場を後にする真摯な中学生のようにひたむきだ。
このように舞台に接する人を見ると、なぜか救われた気持ちになってしまう。




②『ブラスティッド』
サラ・ケインのデビュー作、1995年初演。
今回は、フランス人ダニエル・ジャンヌトーによる演出に、SPACの俳優陣が出演。
過剰な性描写、狂気、暴力を扱った恐ろしげなるものと思っていたが、意外とそう恐ろしくもなかった。
・・・どこか空々しいというか。
翻訳劇は某大先生の仰る通り、どうしてもそうなる運命にあるのでしょうか。

一方で生々しさの緩和は、たしかに雨の音と、布施安寿香の非現実的な声の作用でもあると思う。
こういうさわさわと響いている音が、何かヴェールのように舞台の陰惨さを包んでいる感じがして、図らずも心地よい感じがある。


気になったことは、兵士が入ってきて「爆破され」たあと、場面が大きく変わる際の場面転換。
暗転している中、係りの人が本当に文字通り「どたばたと」入ってきて、冷蔵庫を倒したり、灰を撒き散らしたり。長々と準備をしている間がもっていない感じがある。
もし、この「どたばた」が部屋をめちゃくちゃにする暴力的な力を表現する一端を担っているなら、冷蔵庫ひとつ、安全な方向に投げつけるくらいの勢いでやってほしい。
慎重にコンセントにつないでいる様子は、とてもこのような意図があるようには見えない。
もし、単に大急ぎで大きく場面転換をしたのなら、暗転する意味がないほどうるさい。
暗闇のなかとはいえ観客には見えているし、人々の統制されていない息遣いだってわかってしまう。
この目の覚めるような「現実らしさ」に引き替え、次の場面の「陰惨さ」はなんと空々しいことか。

ローラン・ペリエのシャンパンは、空けた途端に会場が酒臭くなって、何本も吸った煙草の匂いと相まって、匂いの演出をしていた気がします。
舞台と客席の間に敷居がなく至近距離で見るBoxシアターならでは?




③『プ・レ・ス』

フランス人、ピエール・リガルによる振付・出演。
400mハードルの選手に、ドキュメンタリー・フィルムの作成、という面白い経歴の振付家。

もっとも、すべてが上演に活かされている。
暗闇に浮き上がる長方形の枠のなかで(=切り取られたフレーム)、足の関節が電気スタンドの首の部分と重なって、バネのように見えてくる振付(=運動原理の追求)。
人間の有機的な身体が逆に機械を模倣しているという印象を植えつける。

どんどん縮小するフレーム内の空間に、半狂乱で跳ねまわるシルエット。
「カフカ的だ」と指摘した観客がいたが、羽がもげたり首がとれてもなお蠢いているような虫を連想させもする。

本来なら逆立ちしているだけなのだが身体の安定性で、天井と床の反転が起きる。
意味の逆転した世界で、虫になり、機械になった人間がネクタイを直し、煙草を片手にポーズを決める。思わずふっと笑ってしまう。
こういう滑稽さは初期のベケットとも通じている。
パイプ椅子の背もたれに頭から突っ込んで三点頭立のようなポーズを決める姿が、どうしてもマーフィーを彷彿とさせる。
揺り椅子に縛り付けられた身体、揺らしすぎて顔面からすっ転んだまま静止・・・
『プ・レ・ス』はロンドンのゲイト・シアターに委嘱されて作ったものだというが、このユーモアの感覚、ダンディズムはまさにロンドン流、ということか。
『マーフィー』もベケットのロンドン滞在をもとに書かれていた。



静岡から帰って翌14日、中野テルプシコールで『幽霊三重奏 テレビのための劇』、『あたしじゃないし、』を観る。佐藤信の鴎座協賛のプロジェクト、「ベケット・カフェ」の第二弾。

①『幽霊三重奏』
翻訳は早稲田グローバルCOEのベケット・ゼミの諸氏。
鈴木章友による演出。

地続きの舞台と客席の間に薄青い紗幕。ここにカメラをとおった映像が映される。
と同時に、透けて見える向こう側の”本物の”舞台で、”生中継”のようにカメラマンが男を撮影している。
テレビ劇なので「ほんとうは舞台でやっちゃいけないと思うのですが」と言う鈴木章友だが、これはこれで主観の多重性が感じられて良かった。
もとは想定外だったようだが、場面を映し出す紗幕が風に揺れているのも、カメラを通した画面の有機性、裏の生の舞台の無機性という対立が感じられて面白い。

パリで最近いくつかベケット作品を演出したBernard Levyも紗幕にテキストを映す演出をしているが、本来の劇が始まると紗幕があがってしまう、というのはいただけないと思っていた。
紗幕越しに見るベケット劇、というのは悪くないと思う。
後期テレビ作品の上演には向いているかもしれない。

宮沢章夫が来ていて、「窓」が窓じゃなくて扉なのはナゼだ、とつっこんでいた。
さらにひとこと全体の感想、「これは窓じゃないって感じ」。
面白いけれど、これじゃない、ということ。
この感想は普段のしゃべり言葉に訳されたNot Iに関するものだったような気がする。

②『あたしじゃないし、』
岡室美奈子による翻訳、川口智子演出。

「出ちゃった!」で始まる今回の上演のための新訳。
話を立ち聞きしていたら、岡室氏によれば「翻訳は使い捨て」だということ。
オカルティズムを研究する自らを茶化して「霊媒翻訳者」と書いているが、彼女の口を通した言葉の響き、リズムは意外にも心地よく(?)怒涛の流れをなしていた。
「・・・てかマジで?うそだよ、そんなわけないじゃん」(と本当に言ったかどうか忘れてしまったが)などという”貧相な言葉”(と誰かが評したらしい)がズラズラと降ってくるのだが、本当に意外なことに不快ではない。
山下順子の声の切れの良さもあって、むしろテンポ良く、テクストの味が感じられる。
BBCで放映されたヴァージョンの印象に近い。

反面、演出。
勢い込んでしゃべっている動きがばれてしまうゴミ袋のドレス、カツラは余計だとしか言いようがない。
対話を意識したというが、「口」と「聞き手」の間に数メートルもない正面切った関係性、というのも考え難い。その上、「聞き手」に終始明るいライトが当たっているのもなあ・・・

狭い空間で演じるからこそ、もっと薄暗くて良かったのではないか。
この明るさは、「ベケットは抽象的で難解で高尚なもの」では”ない”とする岡室氏の意向もあるのか・・・

それぞれ分解してばらばらに配置しなおしたら、すごく良いもの、というか、「これだ!」になる気がする。