2009/02/28

数撃って敗北、ということもある。

2008年11月末にオデオン座で観たシェークスピア2作品。


①『オセロー』、Eric Vigner演出、美術、衣装の三役をこなす。

とにかく舞台はシンプル、モダン、というよりイマドキ、洒落ている。
オセロー演出ならではの黒・白のモノトーンを基調とした衣装(イアーゴーが白で、オセローは黒。バスチーユで観たオペラ『オテロー』では逆だった。こちらが正統派?)にひとひねり。
裏表にパンチングしたような壁を組み合わせた、とっても便利な舞台装置は、組み合わせによって高層ビルに見える。
照明が透けると、オフィスの窓から光が洩れる夜の六本木のようである。

なにしろ見えるものに眼がいく。

内容。現代的に「読み直し」を図ったというエリック・ヴィニェ、印象としてはバンリュー(郊外)の未成年カップルの痴話喧嘩、といったところである。
Ouais ouais, il est foutu, quoi!
という世界である。

それだけ。

それだけ?

という世界である。


②アトリエ・ベルチエでの『夏の夜の夢』、Yann-Joël Collin演出。

典型的な劇中劇構造を持つこのコメディ、さすがに舞台が至る所にある。
1・客席正面の空間。
2・客席後方、階段上の空間。
3・客席正面の空間に作った小舞台3種。
4・ハンディカメラで撮った映像を、客席正面にあるスクリーンに映す二次元の舞台。
(これによって、すぐそばにいる人物が、同時にもうひとつの舞台に存在するように見える・・・かもしれない)
5・カメラが潜入する楽屋。

あとは、仮装・余興・漫才・クレイジーホース、なんでもござれ。

うるさい、みにくい、中身がない。


腹が立って眠れなかったような記憶がある。
まあ、そんな日もある。

2009/02/27

「何を届けたくて演劇を作っているのか」

24日、シアターコクーンで『ピランデッロのヘンリー四世』を観る。
演出・白井晃、主演・串田和美。
ピランデルロの『エンリコ4世』のトム・ストッパードによる英訳からの翻訳劇。

原作を読んでいなかったのが、観劇後、是非読もう!という気になった。
翻訳もので原作を読みたくなるのは、良い演出の証拠だろうか。

現代版的な演出は大嫌いだが(どこかしら、ある昔の人気TVドラマを装ったようなところがあった気がしてならない)、ひとつ、ずばりと刺さるメッセージを受け取る。


「自分のために演じるんだよ」


周囲の思惑をよそに、実は病は治り、狂気を装いつづけていた男。
12年の間ヘンリー四世として生きてしまった空白は、もはや埋められるものではない。
仮面をかぶることが、すでに自分にとっての真実である。
そうして、死んだ仮面は生身の自分を守ってくれる。

虚構は真実の一部として存在するということ、正気は一種の狂気であることが、くるくる変わる視点の転換によって示される。

ふとポスターに惹かれて見に行った劇だったが、串田和美のヘンリーが渋い。
「この男、正気なのか狂気なのか。」

演じるという狂気、演じ得るという正気。


ひとりで芝居を見て帰っていく「スーツの男性」を見かけたりすると嬉しい、というのは串田の言。
この芝居、演じ疲れたサラリーマンだったら、ちょっと泣いてしまうかもしれない。

2009/02/26

たっぷり見せる

23日、歌舞伎さよなら公演・二月大歌舞伎を2つ観た。

2009年1月から16ヵ月かけて、歌舞伎座が取り壊されるまでの間に観客が選んだ「好きな歌舞伎20選」を上演していくらしい。11月にはがきで投票した結果はこちら。

1.勧進帳
2.義経千本桜
3.京鹿子娘道成寺
4.仮名手本忠臣蔵
5.白浪五人男
6.助六
7.桜姫東文章
8.源氏物語
9.連獅子
10.恋飛脚大和往来
11.菅原伝授手習鑑
12.三人吉三
13.阿古屋
14.俊寛
15.伽羅先代萩
16.暫
17.女殺油地獄
18.里見八犬伝
19.曽根崎心中
20.元禄忠臣蔵

『倭仮名在原系図 蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』は、一般の投票によるものではないらしいが、後半の大立廻りが派手なので、観客は大喜び。

三津五郎と若者たちのアクロバティックな攻防がひたすら続く。
器用にはしごを使って上ったり下りたり、ふりまわしたり。
無敵の蘭平に「やられた!」といわんばかりの若者たちのお決まりのポーズが可愛らしい。

すべて型が決まっているということには、緊迫感がない代わりに、笑いがある。若い衆の身体能力は素晴らしいけれども、それは微笑ましく、好もしいという印象を与えるものである。

一生主役は演じられないだろうに、とんぼ返りのためだけに歌舞伎に関わっているのだろうか・・・
という疑問も起こる。


でも、後半の幕が開いた瞬間、三津五郎を取り囲んだ梯子の陣はスペクタクルとして美しかったです。


『歌舞伎十八番の内 勧進帳』

能の演目にある『安宅』と同じ主題。都落ちの義経一行が山伏と強力に身をやつし、安宅の関を突破しようとする場面。富樫左衛門に見咎められた義経をかばうため、弁慶が知恵をふるう。

山伏に扮した4人の家臣、強力姿の義経は、状況設定の役割であり、客席に背を向ける時間が長い。

吉右衛門の弁慶と菊五郎の富樫が互いを探り合う場面に緊張感がある。

役者の貫禄である。

前の席に座っていたオジサンは、相当のファンらしく、屋号を叫ぶのに余念がない。幕も閉まり、弁慶が花道で最後の大見得を切る。彼の放った掛声に、会場に苦笑のざわめきが起こる。

「タップリ!!」

そう、今日はたっぷり、たのしんだ。

心から楽しんでいる観客のそばで見る劇は、ほんとうに愉しい。


2009/02/24

宇宙ステーション

21日、ふらりと入った世田谷美術館で、難波田史男展がやっていた。

世田谷区は難波田史男の出生の地であるため、ここに700点以上も収蔵しているらしい。
抽象画家の父・難波田龍起(たつおき)の二男。1941-1974年。
クレーやミロ、カンディンスキーを彷彿とさせる、色彩豊かな水彩画が多い。

初期の作品は、頼りなげな線画に、水分たっぷりといった感のうすくぼやけた色が塗られている。
『自己とのたたかいの日々』シリーズ、『夢の国』、『凧を上げる子供たち』など、なにやら精神分析にかけやすそうな様相を呈している。
線は境界であることをやめてしまっている。
うすめた朱肉がひろがった上に滲んだ黒色は、こころの内部に浮かぶ細かな「しみ」に見える。

内的世界の均衡がむやみに壊されたような初期作品に比べ、『モグラの道』(1963)あたりから外から影響を受け付けない独自の世界が出来上がった感がある。
11点1組の壁一面のエメラルドグリーン。
草花のような宇宙人のような動物のような、とぼけた表情の生き物が生活するめくるめく夢の世界は、無限に、力強く広がっている。

「世界は僕から逃げてゆく」

カフカやアポリネールに衝撃を受けたという、史男の言葉である。

70年代に入って線が消え、べったりした透明感のない油絵は、閉塞感か、新技法の模索か。
10年間で、みるみるうちに変わっていった様子がうかがわれる展示だった。

2005年に龍起+史男展を開いたオペラシティ・アートギャラリーは、難波田父子の作品を多く収蔵しているらしい。
まあ、ついこないだのこと、当分展覧会はないだろうな。


・・・と思ったら、まさに今、オペラシティでやっていた。。。
http://www.operacity.jp/ag/exh103.php

2009/02/22

しんとろとろりと見とれる男

2月15日、国立劇場で文楽2月公演、『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』。

1部よりも、3部の『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の方が随分注目株だったようだが、日曜のせいか何のせいか、満席。

老若男女、フツーの若者も着物の奥様も、お弁当片手に和んでいる。
ほのぼの。

『鑓の権三重帷子』は、近松門左衛門六十五歳の時に書かれた姦通物、1717年竹本座初演。

初演前月の7月、松江藩の茶道役・正井宗味の妻とよと、同藩近習小姓役・池田文治が姦通したために、大阪高麗橋上で「妻敵討ち」するという実話がもとになっている。


伊達男の笹野権三は、茶道の兄弟弟子・川側伴之丞に姦通の濡れ衣を着せられ、武士の面目のためには、不義の相手おさゐの夫・浅香市之進に討たれることを選ぶ。
伴之丞の妹・お雪は権三と恋仲、愛娘の婿探しのつもりが、おさゐは権三に嫉妬、人妻であるおさゐに言い寄る伴之丞は権三に嫉妬。

コルネイユとラシーヌが渾然一体となったような悲劇の筋書きである。

それが、軽妙な語りと人形の動きによってなんとも滑稽に見えてくるのがたのしい。
浅香市之進留守宅の段、数寄屋の段の大夫を務めた重要無形文化財保持者、竹本綱大夫のおさゐが心地よくも憎らしい。
「第一私が恋婿、オホホホホ何と合点して下さんすか」、「イヤあるある」、「エエいやらしい手が穢れた」などなど、”これぞ女”という節回しである。

伏見京橋妻敵討ちの段は、出演者が多く華やかな盆踊りが背景にある。
鳴り響くお囃子はどことなく残酷な響きがする。
斬り捨てられる二人が哀れというよりは、ちょっとこわい。

日本の伝統芸能は、とかく目をやる場所に事欠かないということに気がつく。
そして人形は、生身でないぶん滑稽で、そら恐ろしいことが分かる。

Philosophie de la scène

2月3日、Denis Guénoun主催のjournée d'étude。
今回の主役は、主催もお気に入りの、Esa Kirkkopelto。
P. Lacoue-labartheの指導のもと、ストラスブール大学でテーズを上梓した気鋭のフィンランド人である。

①ゲヌーン氏のイントロ、お得意の引用:C'est quelque chose qui arrive!
度々、クローデル曰くの”能との違い”を引き合いにだすが、実際話をきいていると、そうでもない。
というのも、"La scène se définit par la comparution des acteurs"という説を信じている以上、それは俳優であれ登場人物であれ、誰かの到来に相違ないからである。
エーサからこういう意見が出た時に、誰もがそう感じていたような雰囲気があったのは事実だ。
ゲヌーン氏としては、誰かが現れようとする瞬間、人と人とのうちに、ドラマが起こるという説による応酬。

②Thomas Dommangeの怒声に尋常ならざる頭痛がしたので、内容は割愛・・・
客席の観客は、立ち去る瞬間をひたすらに待つ。
それが演劇である、という名もないひとの言葉を思い出す。

だいたい、マイクで怒鳴るなよな・・・

③Nicolas Dutey: "abstraction qui marche"
ベケット&周辺の現代思想の研究を進めているニコラ。
scèneとは、l'oeil du corpsとl'oeil de l'espritの共存する、そして2つの目が同時に機能する場である。

ひとつ興味深かったのは、前述T. Dommangeのテーズからの引用で、"effondrement ontologique du spectateur"について。
居心地の悪さを訴える観客は、その時点ですでに観客ではないという。
なぜなら、l'oeil de l'espritで知覚する「舞台」を見失ってしまっているから。

④Schirin Nowrousian: "scène et son"
舞台において、音という要素は他の演劇的要素に対してどういう位置にあるのかという問い。
こたえはわかりません。
ギリシア悲劇の上演以降、姿を消した合唱隊の存在と関係・・・
するだろうことは今日、誰にでも想像がついておりますが。

⑤Esa Kirkkopelto: "Scène phénoménologique"
プラトンとカントに根拠を求める、"préséance"なるものの定義について。
芸術におけるミメーシスには限界があると思われるが、何がその臨界点を定めるのか?

みなさま、もう少し勉学に励んでから再考させていただきます。
敬具。

p.s. ひとつ言えることは、2006年、Institut finlandaisで上演された、キルッコペルト率いるフィンランド劇団の上演には、脳みそをグルグルさせてくれる力がみなぎっていた。強烈に面白かったです。
数人が同時に行う詩の朗読+観客との偶発的な接触(完全なる偶然性の追求。よくあるhappenning風味ではない。床に体育座りさせられた観客は、宇宙に散らばる小隕石となった俳優にとって、邪魔ですらあった・・・)。その上演のおわりに、怪しげな宇宙体験装置で、観客と一緒に遊んだのは、いったい何だったの??

舞台や観客席や幕や暗闇は必要ない。
どんどん先に行って欲しい、そうして、追いかけていきたい、と思わせられる人の一人である。
Esa, Bravo!

2009/02/01

シューベルトの遺言

1月31日、シューベルトの歌曲『冬の旅』を聴く。
Théâtre de la Villeのもうひとつのコンサート会場Les Abbessesで、こじんまりと居心地が良い。
日曜の午後にのんびり聴く室内音楽にぴったりである。

テノールは、外見のわりに若々しく張りのある声を持つWerner Güra。
ピアノは、かわいらしく軽い音を出すChristoph Berner。

シューベルトの死の前年に書かれたというこの『冬の旅』、失恋によって絶望した青年が孤独のうちに放浪をつづける、Wilhelm Müllerの暗く湿っぽい抒情詩を歌曲に仕立てたものである。
雪のつもった自分の頭が白く見え、死に近づいたと思ったが、その幻想も束の間、雪は溶けて、絶望したまま生きる残りの長い道のりを嘆く・・・

一体どれだけ暗いのか、と半ば楽しみにして行ってみたが、こころよく裏切られた。

木枯らし吹きすさぶ冬の旅路には、親密な逃げ場が欠かせない。
過ぎ去った幸福な日々、夢に見る春、光の踊る幻。
妄想と幻覚は、不幸にあってやけに美しく、魅力的である。

若い演奏家というせいもあるのか、乾いた孤独感よりも、自分の内側に逃げこむ時の親密な温もりと優しさが印象的。
蝶々の飛んでゆくのが見える気がする。

バリトンが歌うことの方が多いという『冬の旅』だが、この2人の演奏よりも、恐らくずいぶんと重みを増すだろうということは想像に難くない。
そうなると、自分に重ね合わせて書いたという、老いたシューベルトの姿が目に浮かぶのかもしれない。

が、話は青年の放浪であるので、この青臭い絶望もわるくない、かもしれない。

が、ベケットが愛した『冬の旅』は、バリトンのDietrich Fischer-Dieskauである。
やはり、の一言に尽きる。