2009/09/16

"Philoctète" by C. Schiaretti

O. ピィが17区のアトリエ・ベルティエで『サトゥルヌスの子供たち』をやっている間、
5区のオデオン座では、C. シャレッティが『ピロクテテス』(Philoctète)を演出する。

今シーズンは11月にThéâtre de la Villeでも、J. ジュルドゥイユ演出で『ピロクテテス』がかかる。
いったい何の偶然かと思うのだが、シャレッティはJ.-P. シメオンが翻案したものを、
ジュルドゥイユはH. ミュラーが書いた『ピロクテテス』をJ.-L. ベッソンが翻訳したものを、それぞれ演出するのだ。

シャレッティは、パリの国立高等演劇学校でJ. ヴィラールやC. レジに師事し、1991年から2001年までランスの国立演劇センターのディレクター(D. ゲヌーンの後を引き継いだことになる)、2002年から現職で、リヨン郊外Villeurbanneに移された(1972年)国立民衆劇場(TNP)のディレクターを務めている。

ふむ。

シメオンの『ピロクテテス』に関してシャレッティのインタビューを読んでみる。


"悲劇性の場としての言語"

クリスティアン・シャレッティは『ピロクテテス』で、ローラン・テルジエフを演出する。
彼自身がジャン・ピエール・シメオンに翻案を依頼した、ソフォクレスの作品。
席の予約は必然である。

La Terrasse(T) : あなたは『ピロクテテス』が型破りの悲劇だとおっしゃいます。なぜでしょうか?

Christian Scharetti(C. S.) : 悲劇という割り当てに疑問符をつけたって構わないくらいでしょう。その構造、テーマ体系、指示対象、状況において、『ピロクテテス』は型破りで不気味です。ひとつには、これは人間の悲劇だからです。次に、ハッピーエンドであり、解決できない葛藤に貫かれていない。
そしてこの悲劇はユーモアと、不条理と滑稽味に満ちてもいるからです。

T : それではどこに悲劇性があるのでしょう?

C. S. : 言語のなかです。ソフォクレスはソフィストの論法が最盛期の時代に書いたのです。ほとんどすべての台詞が二重の意味を持っています。意味を決定することはできません、まるで言語が恒常的な両義性のなかで、肯定することが可能な場ではなくなってしまったかのように。悲劇性は言葉のなかにあるというのは、言葉がうまれた瞬間から、真実は嘘になってしまうからです。言葉はセイレーンなんです。

T : ピロクテテスとは何者なんでしょうか?

C. S. : ピロクテテスは悪徳が痛めつけた人間です。毒蛇に咬まれ、苦痛と壊疽に胸をえぐられ、仲間に捨てられて、彼は人間と神とを呪います。彼の内には根本的なアナーキズムがあるのです。徳の追求を繰り返すなかで、非社交性が、彼を強情で不敬な、原初の動物的な状態に連れ戻していきます。彼は追放され、もはや戦いに再び加わることはありません。彼は自分の回想録の中での反乱を余儀なくされます。彼の眼前にはオデュッセウスが、嘘に頼ることの必要性を知っている役割の実用主義と、政治的な原動力とはなりえない怨恨を消す必要性のなかにたたずんでいます。その間を行ったり来たり、バランスがとれるまで続きます。

T : なぜテルジエフがピロクテテスを演じるのでしょう?

C. S. : テルジエフは現代演劇の世界において、特殊な地位にあります。テルジエフはピトエフなんです。『詐欺師』の神話、美しくも反逆的な若さの神話なんです。テルジエフはまた、誰にも何も負うことがないような根源的な作品を追い求めた劇団の孤独です。その根源性から観客が読み取るもののなかには、神話性と、彼の偉大さを作り上げているこの隔絶があるのです。この意味で、ピロクテテスを演じながら、彼は明らかに気高さと脆さのなかにあります。なぜテルジエフか?質問になりません。彼がピロクテテスなのですから。

(Catherine Robertによる記述)

2009/09/13

Olivier Py 2009-2010

劇場でLa Terrasseの10月号をもらった。

インタビューを発見したので翻訳してみる。
相も変わらず抽象的で、とりとめがなく、論理的なのか適当なのかわからない発言だけれども、なぜか苦笑してしまい、人に元気をくれるのがこの人のいいところだと思う。

彼のジョーカー、『サトゥルヌスの子供たち』は果たしてどこまで連れていってくれるんだろうか?

インタビュー:オリビエ・ピィ

《複数の自分をもつシーズン》

オリヴィエ・ピィがオデオン座のトップに就任して三期目にはいり、オデオン座を演劇の首都に変えていくなかで、ディレクターとして、また詩人として、多様な提案とクリエーションを続けている。

La Terrace (T): 『テーバイの七将』の成功に支えられて、劇場外での公演を続けるわけですね。

Olivier Py (O.P.): 『テーバイの七将』は、本当に小さなものであって、ひとつの試み、ひとつの仮定でした。どこででも上演できるように、ものすごく軽い劇が必要だったんです。しかしまた、野望としては大きな作品であるのと同じくらい、財政的には小さく済む計画が必要だったと言えます。この実験的な冒険において、僕はアイスキュロスの全作品を演出したいと思ってるんです。初めの一歩があまりに熱烈で感動的だったので、続けるしかなかったんですね。これは、アイスキュロスの中に芸術表現の対象を見出したという社会文化的な計画ではありません。むしろまったくの逆でして、このことこそが計画を成功に導いたのです。


T : オデオン座に来て以来、あなたと観衆との関係はどう変わりましたか?

O.P. : 僕は、脱中央集権化のなかで学んだものと共にやって来たのです。国民教育省や組合との関係を再活性化しなければなりませんでした。また、僕らは出版社やINA [フランス国立視聴覚研究所] との結びつきも広げました。割引料金を奨励するような価格形態も設定し、それによってこの劇場が単に消費の場ではなく、講演会や討論のある市民生活の場となるようにしています。僕は、オデオン座が本当に自己を、互いを再発見するような場であってほしいんです。アトリエ・ベルティエに関して言えば、あの界隈で唯一の文化発信の拠点であるわけですが、ここでも上演の時間外にさまざまな活動を繰り広げていくつもりです。


T : 2009-2010年のシーズンは、何らかのテーマをめぐって構成されているのですか?

O.P. : テーマごとのシーズンという考え方はいつもものごとを単純化してしまいます。それはともかく、劇場というのはひとつのスポンジで、世界の議論を吸いこむものなのです。この観点からすると、政治的な問題が今シーズン至る所に張り巡らされていると言えます。まるで今年は、世界という意識がより一層高まっているかのように。しかし極めて重要で、中心にあるのはヨーロッパ的な計画で、ディミトリス・ディミトリアディスという主要だけれども知られていない、この偉大な作家をめぐって構成されています。
僕はひとつのシーズンが、たとえば古典的な形態、規律を乱すような形態、古いものや新しいもの、ヨーロッパの作品やフランスの作品を織り交ぜた多様性に特徴づけられるようなものであるように願っているんです。


T: 今シーズンは『サトゥルヌスの子供たち』で幕をあけますね。この新作についてはどうですか?

O.P. : これは僕の呪われた芝居です。人は時として、自分自身のもっとも黒い部分に近づくことがあるものです。僕は、『イリュージョン・コミック』という喜劇から脱しました。もう笑いには耐えられなかった。

『サトゥルヌスの子供たち』は、今日のフランスにおける偶像の凋落に言及しています。この芝居はひとつの文明の死を語るのです。僕はいくつかのフランス的日常が失われていくことに、強い衝撃を受けました。それらは政治とのある関わりの消滅や、僕自身が傷つきながらも歩んできた文学というものの上に成り立つ世界の消滅を表す、時代の象徴のように思われました。このテクストは難解で、不快で、乱暴で、終末的な芝居と言えますが、陰鬱でありながらも絶望しているわけではありません。

T : それほどの暗さのなかで、希望はどこにあるのでしょうか?

O.P. : すべての惨事において、何かしら明らかになってくるものです。僕は思うのですが、ヨーロッパの未来はそのようにして、南北の対話の中にあるのです。それを僕は、『サトゥルヌスの子供たち』のなかで、老いたサトゥルヌスに束縛されない自由な後継者としてのヌールという人物に寓意化しようとしています。この芝居では、息子たちは父親とうまくいっていません。堂々巡りの世界において、彼らの関係は非常に困難なものとなり、他者を受け入れることができなくなっています。基本的には、僕はいつでも希望はあると信じています。第一に、ある人からほかの人へとそそぐ光を妨げるものは何もないからです。その次に、若さを信じなければならないからです。人は、光や若さをゆがめてしまうことはあるかもしれませんが、それを望むことは妨げられないのです。父は、息子が自分の場所を勝ち取ることを妨げないでしょう。僕らが6月に主催する、若い劇団のためのフェスティバルのタイトルは”待ちきれない”っていうんですよ!

(Catherine Robertによって記録された)