2009/08/21

皮膚感覚という信仰

ここひと月ばかりの間に、幾人かの知人と力強い握手を交わした。
別れ際のことだ。
いま、この瞬間が最後だという気がしてしまう。
相手がどう考えていようとも、こちらはなぜか常に「最後にはしないぞ」という姿勢で手を差し出しているにもかかわらず、一期一会の文字を思う。
言い方を変えれば、それでもいいんだ、という気がする瞬間である。
半泣き状態の心境でありながら、なにか確信のようなものを得た心持ちになっていることが多い。
そう、どこかで嬉しいのである。
だから泣けない。

先日、友人に誘われて青山でやっているDialogue in the darkというイベントに参加してきた。
完全な暗闇の中を、視覚障害を持つ案内人と共に散策する、というものである。
1989年にドイツで考案されて以来、ヨーロッパ各国で実施されてきたという催し。
どうやっているのか分からないが、どんなに眼を慣らしても、凝らしても、ひとかけらの光=なにがしかの影、も見えない。
自分が自分を認識できないような闇の中を7人の会ったばかりの人とグループになって歩く。
普段から暗闇がこわい、と思っていた人は、震えるくらい不安になる。
これは経験してみないことには分からないが、ふつうの人も一瞬パニックに陥る。
「声を掛け合って互いの位置を確認し合ってください」
こういう指示が最初から出ていたが、言われずとも声を出していないと、自分がいないようで非常に不安になるので、しゃべりまくる。
独り言も多くなる。が、暗闇はなぜか澄み切ったように静かなので、みんなの独り言がみんなに聞こえてしまう、という状態になる。

案内人の声に従って、(見え)ない橋をわたり、(見え)ないスイカを触り、(見え)ないベンチに腰掛ける。
近くにいると思しき同行者の手をひいて、「ここ」にスイカがあるということを触覚をもって教え合う。
「ここ」がどこなのか、「これ」がスイカなのか、そこにあるのかないのか、触れなければ分からないのだ。(「そこ」という言葉は発される意味すらない)
声を発さない物体は、触れなければ、存在しないということになる。

「触らぬ壁に語りなし」とはよく言ったものである。

視覚障害をもつ案内人は、頼れるものは「音」だと言った。
距離を測るのは音/声しかない。
しかし、眼が見えているはずの者にとって、最も頼れるものは触覚だったと思う。
傲慢であるとも、情けないとも思ってしまうのだが、触ると、「見える」気がするのだ。
暗闇にはいる前に見た、会ったばかりの人たちの姿かたち。
自分が見たことのあるような、触れたことのあるような仕方で想像されるベンチ、テーブル、グラス。
不思議なことにそこには色もついている。
触覚が「見える記憶」を喚起しているようである。

そうして、見えないイメージが眼前に結ばれると、言いようのない幸せな気持ちになる。
それがおそらく実際には違う姿であるとしても、だ。
いや、実際の姿を知らないゆえに想像の可視的世界に遊べる、というのだろうか。

このとき、声は確かに存在を示してくれたけれども、声は距離を埋めてくれない。
自分から離れて誰かがいる、ということを示してくれるのみで、完全に自分に存在を知覚させてくれはしないのだ。

一時間の暗闇散策を終えたころには、恐怖もどこへやら、見える世界が色褪せていた。
名前で呼び合ったグループの人々も、互いに姿を見られまいと(そういう感じがした)、そそくさと帰ってゆく。

暗闇のなかでは、運命共同体的なグループの結束まで感じられてしまったから不思議だ。
見えない、という状況において、演劇のひとつの理想である共同体が生まれてしまったようで、皮肉である。
誰も演じてないし、誰も見えていなかったけれど、なにか同じものを見ている感覚があったのではないだろうか。

要するに、同じものを見ていなくとも、同じ経験をしている瞬間、共同体はあるのではないだろうか。
演劇théâtreの語源と言われるtheatronとは、ギリシア語で「見る場所」であって、論文を読んでいるとしょっちゅう引き合いに出されて、まるでそれが「演劇=見る」という動かぬ証拠であるかのようなのだが、この「見る」はひとつの「経験」として考えられるべきで、具体的な対象を求めてはいけないのかもしれない。

フロイトによれば、「視覚的な印象は、分析の背後で、触覚的印象へと連れ戻されうる」という。
精神的レヴェルにおいて、「見る」は「触れる」につながっているのだ。

ものすごく面白い芝居を見たとき、離れた席にいても、間近で見たように記憶していることがある。
逆に、ものすごく狭い劇場で、至近距離で俳優を眺めていても、まるで遠い出来事のように思えることがある。(先日のAPOCシアターでのラガルス『ただ世界の終り』なんかは好例である。)

どれだけたくさんの言葉を駆使しても、どれだけ飽き足らず顔を眺めていても、触れることに敵う存在感はない。
実際の生活では、手を握ってしまえば心のうちが見えてしまう。気がする。
本当には理解できていないのだろうが、それでも納得できてしまうのだ。
いろいろな感情がふってくるのだが、それでいい、と思える。

一般的な演劇では、触れることができない。
よく観客に触りたがる芝居はあるが、触っちゃったら終わりだろう、と思う。
触れられるならフィクションは必要ないからだ。

見ることで触れさせてくれるような芝居に、今後もっと出会えることを願うばかり。

そういえば、握手してくれた方々はすべて演劇人であった。
触れてはならない身体とつき合っている人々の握手は固い。
しかと受け取りました。