2010/03/16

Ode Maritime

クロード・レジ演出、ジャン=カンタン・シャトラン主演。

2時間かけて無諧調に口ずさまれ、叫ばれ、つぶやかれる抒情詩。
一生に一度聴けるか、という壮大なモノローグである。

舞台は前方に張り出した鉄筋の桟橋のみ、舞台奥は繭の内部のように曲線を描いて、白い壁に覆われている。
至ってシンプルかつ無機的な薄暗い空間に、男が一人やってきて、歌うかのように語りだす。
左手から舞台へ向けて歩いてくるのろのろとした速度といい、話し出す際の奇妙に間延びした不可思議なアクセントといい、お能のシテを彷彿とさせずにおかない演出。
囃子方の笛そのもののような、声の揺れと強弱も感じさせる。
あるいは、男の語りは読経のようにも聞こえ、笑ってはいけない法事の時に、どうしても途中で噴き出したくなる、あのリズムとアクセントに限りなく似ている。
日本人でなくともこれは可笑しいらしく、時折方々から笑いが漏れる。
とはいえ、極めて口語的な語りであるため、茫然と聴いているだけでも胸苦しくなるような感情がしっかりと伝わってくるし、意味不明の唸りや叫びが直接に語りかけてくる。
無理に理解しようとして失敗せずとも、流れに身を任せているだけでいいのだ。

桟橋に立ち止まった男はそこから2時間、一歩も動かない。
肉体は鎖につながれているが精神は自由を求めている、とでもいえそうな構図で、遠くに見えている(らしい)船に旅立ちを求めて叫ぶ。
"Les eaux m'appellent! "
"Je veux partir avec vous!"
時折使われる"Vous"は、やはり観衆にも向けられていると感じる。”ここ”から立ち去ることができない何かが、観衆=隔たってはいないけれども決して届かない外部の世界に向かって、解放を訴えている。
手はある程度動かすが、足は一歩も動かさないという俳優の束縛状態が作り出す効果は、ベケットの演劇にかなり近いもので、この不毛な身体はひとつの機械、声を発し、精神を存在させている物質であって、精神はもうひとつの不可視の舞台として、別の場所に存在しているように思われてくる。
声だけが確固たる存在のように感じられる瞬間が幾度もある。

それにしても2時間この調子で、何十人かの観客が、執念深い自縛霊のような彼を残して立ち去って行った。彼の精神的強度についていけなかったことは恐らく誰も責められない。
しかしこんな滅多に見られないものを諦めるなんて、勿体無くはある。
日本の行儀のよい観客は、ヨーロッパ人のように立ち去るという選択肢を持っていないように思われるが、果たしてどこまで耐えられるのだろうか。

理解はできない。ただ受け止めるだけで十分すぎるほど十分な芝居だと思う。

2010/02/01

20-31

1月20日:Pinacothèqueにて、L'Âge d'or hollandaisのエクスポ。

1月26日:Poissyにあるル・コルビュジェの建築Villa Savoye見学。

居住空間は、立った視点と、座った視点とでは随分と違った味わいがある。初めて訪れる場所はどうも緊張してしまうので、落ち着くために一度座って見る。開口部いっぱいにとられたリビングの窓から眺める”屋上庭園”は、冬の曇天のせいか寒々しい。初夏の日差しがある時なんかだったら、本を片手にのんびりソファに寝そべって、子供たちが日光浴をしているのを眺めながら、手でも振ってあげたくなるに違いない。
”明るい時間”と名付けられた別荘ということだが、曇り空にしては確かに室内が明るく、各部屋の窓から入ってくる景色がやけに優しい。うまく自然に溶け込んでいる感じで、室内から眺めても、外から建物を眺めても、空と草木に包まれている。

1月29日:Musée d'Orsay、James Ensor展。

アンソールの自己主張に疲れを感じつつも、マスクをつけた人物たちが策謀をめぐらせているL'intrigueには感嘆。一般的に言って、マスクの下には生身の顔が存在すると思うのだが、アンソールの描くマスクには生身の弱さが透けて見えてこない。仮面の裏には骸骨があるどころか、空虚が口を開けているような気がする。とりつくろわれた表面が、そのまま人間を作ってしまっているような哀しい人物たちで、背筋が寒くなる。べったりした奇妙に明るい色彩も不吉だ。

1月31日:Théâtre de la Ville - Abbessesにて、Bérangère Jannelle演出によるモリエールのAmphitryon

肉体疲労時の言語劇は睡眠薬である。権力批判、すべての登場人物における自己同一性の揺らぎ・人格の二重化など、耳で聞くにはテーマも混み入っている。2009年の『フィロクテテス』の時の舞台装置を使いまわししていること(台形の大型斜面。側面に穴をあけて、舞台袖のようにも屋内のようにも使うことができるし、紗幕の面には投影もできる)と、ソジーを演じるOlivier Balazucの顔だけ覚えてはいる。

2010/01/27

Cercles/Fictions

1月27日:Bouffes du Nordにて、Jöel PommeratのCercles/Fictions
1990年に彼自身が立ち上げた劇団Compagnie Louis Brouillardによる上演。

直径10メートルほどの完全な円形のアクティング・エリアは腰高の壁に囲まれており、四方に入・退場の通路を設けてある。この劇場の普段の半円形部分に円形舞台が作られ、舞台部分は客席となっているわけだ。その円形エリアの頭上高くには、これまた円形のトラスが吊られ、ほとんど全ての照明がここに取り付けられている。
舞台はとにかく狭い上に、四方に設けられた客席から見られているため、一方向に向けた舞台装置を置くことは避けられている。この背景を持たない空間に、ある特定の場所の観念を与えていたのは、なかなか凝った照明である。円形の空間にさらに光の円を作って隔離された場所を想起させたり、光の帯で道を作り、細かく散らした光で深い森の内部を表現したりする。客席を完全な闇に沈めているため場内全体が暗く、かなり効果的なイメージができる。

一貫したストーリーはなく、数種類の状況を断片化し、次々と場面にスポットを当てていく。
暗闇にもかかわらず俳優と道具方のスマートな動きに加えて、絶妙なタイミングで暗転・場面転換するため、断片化された場面場面が絶えずテンポよく観客に降りかかってくる。
それぞれが人生における何らかの選択を迫られる瞬間で、濃密な一瞬一瞬を映し出している。
差しのべられた誘惑の手に自ら触れる瞬間や、人が人の心につけいる瞬間を見事にとらえていて、ぞっとしてしまう。間合いと台詞のスピードが合っていると、大した台詞でもないのに、すとんと心に落ちてくる気がする。
俳優たちは多くの部分を早口あるいは遅すぎるくらいのささやき声で語るが、小型マイクをつけることで、ささやきの質は乱されずに親密であると同時に探り合うような残酷な声の効果を生んでいた。

2時間を超える上演は長いと踏んでいたのに、テンポの良さと場面ごとの濃度の高さによって、飽きることもなくついていくことができた。
これだけ狭い円形空間のせいか、背中でも演技している俳優の努力の賜物か、いつにない臨場感が楽しめる上演だったと思う。

たまには後ろも振り返らなければ。

思いだせないくらい放っておいたので、ちゃんと整理してみる。
2009年観たもので、言葉に残せなかったもの。
2010年は、あくまで機械的にメモを取る習性を身につけなくてはならない。

4月29日:国立劇場にて「錦会」公演
日本舞踊をやっている友達の発表会。いつもと違う麗しさがなぜか嬉しい。

5月24日:国立劇場にて文楽『ひらかな盛衰記』

7月27-28日:SPACにてオデオン座来日公演。O. ピィの『グリム童話』(『少女と悪魔と風車小屋』、『いのちの水』、『本物のフィアンセ』 )。
同行通訳として、内側から上演に携わった二度目の経験。一度目が悪夢だっただけに、天変地異が起きた。人生のカタルシスを味わっちゃったら形容する言葉なんて出てこない。でも、これを乗り越えなくてはいけない、というのが今の自分の位置。
心の琴線に触れるセリーヌの歌声と女性らしい茶目っけに惚れ、シルヴィの完璧主義に惚れ、ベンの舞台上での豹変に惚れた。俳優は普通の人間であると同時に、超人でもある。彼らが絶対の信頼を置く・置かざるを得ない照明・道具スタッフは、この超人性を支えている。それぞれ持ち場があり、それぞれが役割を完璧に全うする場に立ち会ってしまった。必然的に、自分自身の役割を痛感することになる。自分はどこにいるのか?通訳は純粋に境界線であって、自分ではない。腑に落ちた。果たして普段の自分はどこへいくのか・・・

7月29日:アテネ・フランセにて、グレゴリー・コージェンツエフ監督の映画『ハムレット』

8月4日:六本木で、チェルフィッチュの山縣太一も出演する『ライン京急』公演

8月5日:アテネ・フランセにて、タルコフスキー監督の映画『鏡』

8月10日:東中野KAZEで、オリヴィエ・コントの一人芝居『年老いたクラウン』

8月18日:千歳船橋のAPOCシアターにて、A La PlaceによるJ.-L. ラガルスの『世界の果てに』

8月20日:東京芸術劇場にて、江戸糸あやつり人形の結城座による『乱歩・白昼夢』

9月8日:Pinacothèque de Parisにて、Utrillo展。
母であるValadonとユトリロの並列展示が興味深い。不遇な境涯だったのね・・・

9月13日:CartoucherieのThéâtre de l'Epée deBoisにて、パゾリーニのCalderon。

9月17日:ソルボンヌにて、コロック"Renaissances de la tragédie"。本当に演劇を観たことがある人たちなのか、と問いたくなるほど見せ場のない発表の数々。

9月22日:ランボーの生誕地Charleville-Mézièresにて、マリオネット祭に遭遇。"Les porteurs de graines"を観る。あの人は毎日、人知れず人形の胴を割って血をとりだす練習をしてたのか・・・と思うとマリオネティストには頭が下がる。

10月6日:Théâtre de la Ville-Abbessesにて、ダヴィッド・レスコーのL'Européenne。言語の差異から見るヨーロッパなるものの不調和。差異はあっても愛はある、らしい。確かにバディウもそう言っている。

10月8日:Théâtre de la Villeにて、Guy Cassiers演出のSous le volcan。ここまで映像に頼ってしまうと、生々しいものが好きな観客には耐えがたいが、酩酊状態の幻覚を表現するのにはうってつけなのかもしれない。でも別に面白くない。

10月14日:Théâtre de la Ville-Abbessesにて、Fabrice MelquiotのWanted Petula。いくら小学生向けの劇だと言っても、子供を馬鹿にするにもほどがある。想像力を壊すぐらいなら、こんなもの観せなくていい。

10月21日:Théâtre de Sartrouvilleにて、Laurent Fréchuret演出によるエウリピデスのMédée。メディア演じるCatherine Germainの狂気はけっこう良い。

11月8日:Atelier Berthierにて、Michael Marmarinosが演出するDimitri DimitriadisのテクストJe meurs comme un pays。俳優とエキストラ合わせて100人近い出演者がいたが、2時間の上演中ほとんど乱れることのない列を形成していて、不思議なまとまりがあった。上演そのものがマニフェスタシオンのようで、個と集団の溶けあうエネルギーが感じられる。話自体はテクストを読まないと分からないので何が面白いというのでもないが、観客にぶつけてくる主張に本物の鋭さがあったように思う。

11月22日:Théâtre du Châteletにて、朝のコンサート。最近ラヴェルの演奏でお気に入りのAlexandre Tharaudくんがミュンヘン室内楽団とともにバッハのコンチェルトを弾く。あくまで繊細、精緻な演奏に日曜の朝から幸せを感じる。

11月25日:ルーブル美術館でやっていたエクスポで、ティッツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットを観る。ティッツィアーノの鏡を覗き込むビーナスが秀逸。布の装飾ひとつとっても光っている。同じく”鏡もの”では、ティントレットの”スザンヌと老人”もちょっと面白い。

12月2日:Théâtre de la Bastilleにて、tgSTANによるLe chemin solitaire。半分素人?と思わせる演技、明らかな即興に面食らう。まだこちらが楽しみ方を覚えていない感じ。

12月15日:Théâtre de Chaillotにて、LePage演出のDragon bleu。いかにも西洋的なオリエンタリズムに嫌気がさすとともに、映像技術を駆使した舞台表現にも眩暈がする。こんなでっちあげを楽しそうに笑っているパリのブルジョワの皆さまにも、げんなりする。家に帰ってテレビでも見てろってんだ。

12月16日:Théâtre de la Villeにて、Jérôme Bel演出によるCédric Andrieuxの自伝的ダンス。
ダンスと、その師M. カニンガムとの出会いをぼそぼそと、親密な口調で語り、たまに踊って見せてくれる。漫才顔負けに面白くて、つい笑ってしまう。上演途中、純粋カニンガム主義のオバサマがさんざんの侮辱に怒り出してやじを飛ばすも、大多数の観客の声援を受け、ダンス芝居は無事終了。そうそう、言いたいことは言えばいいんだ、と爽快な気分を味わう。

12月20日:Théâtre de la Collineにて、Stéphane Braunscheweig演出によるイプセンのRosmelsholm。正統派。内容も古典的なら、演出にも演技にもひっかかるところが一つもない。現代人としては眠い。

12月21日:Théâtre des Champs-Elyséesにて、フラメンコ。ヒロインSara Barasさんの肉体美と”究極の痙攣”を堪能。そのエロティックさに妙に納得してしまい、フラメンコは女性が観るものではないのかもしれないという考えがよぎる。演出はどうみても古臭くて残念。

12月23日:Théâtre de l'Atelierにて、Sami FreyがベケットのテクストPremier amourを一人芝居にアレンジ。天才俳優というのはいるものだ。L. テルジエフと同じ匂いを感じた。

12月27日:Atelier Berthierにて、André Engel演出によるクライストのLa Petite Catherine de Heilbronn。会場全体に漂わせたスモークと、終始ごく暗い照明のせいか、夢現の境が上手にぼかされている。Julie-Marie Parmentier演じるカトリーヌの甲高く子供っぽい声と、華奢な体つきが暗闇に映え、ロマンティックな気分を肯定してくれる。開演前には6月に出会った照明のジョゼに遭遇し、演劇を観る気分も高揚していた。

12月30日:Théâtre de Chaillotにて、A. Preljocaj振付のBlanche Neige。クラシック・バレエの形式を保持したまま、現代的ダンスを取り入れている?奇妙なズレが面白い。7人の小人の群舞、シライ・ナギサ演じる死んだ白雪姫をSergio Diaz演じる王子が踊らせる場面の緊張感はすごい。時折みられる暴力的なしぐさが良い。演出は、"Un ballet narratif"と銘打ってあるが、ストーリーを追うための説明的な部分がバレエでも演劇でもない、無意味な瞬間をいくつも作りだしてしまって、非常に間が悪い感じがした。

さて、ようやく2010年がやってきた気がする。