2009/02/22

Philosophie de la scène

2月3日、Denis Guénoun主催のjournée d'étude。
今回の主役は、主催もお気に入りの、Esa Kirkkopelto。
P. Lacoue-labartheの指導のもと、ストラスブール大学でテーズを上梓した気鋭のフィンランド人である。

①ゲヌーン氏のイントロ、お得意の引用:C'est quelque chose qui arrive!
度々、クローデル曰くの”能との違い”を引き合いにだすが、実際話をきいていると、そうでもない。
というのも、"La scène se définit par la comparution des acteurs"という説を信じている以上、それは俳優であれ登場人物であれ、誰かの到来に相違ないからである。
エーサからこういう意見が出た時に、誰もがそう感じていたような雰囲気があったのは事実だ。
ゲヌーン氏としては、誰かが現れようとする瞬間、人と人とのうちに、ドラマが起こるという説による応酬。

②Thomas Dommangeの怒声に尋常ならざる頭痛がしたので、内容は割愛・・・
客席の観客は、立ち去る瞬間をひたすらに待つ。
それが演劇である、という名もないひとの言葉を思い出す。

だいたい、マイクで怒鳴るなよな・・・

③Nicolas Dutey: "abstraction qui marche"
ベケット&周辺の現代思想の研究を進めているニコラ。
scèneとは、l'oeil du corpsとl'oeil de l'espritの共存する、そして2つの目が同時に機能する場である。

ひとつ興味深かったのは、前述T. Dommangeのテーズからの引用で、"effondrement ontologique du spectateur"について。
居心地の悪さを訴える観客は、その時点ですでに観客ではないという。
なぜなら、l'oeil de l'espritで知覚する「舞台」を見失ってしまっているから。

④Schirin Nowrousian: "scène et son"
舞台において、音という要素は他の演劇的要素に対してどういう位置にあるのかという問い。
こたえはわかりません。
ギリシア悲劇の上演以降、姿を消した合唱隊の存在と関係・・・
するだろうことは今日、誰にでも想像がついておりますが。

⑤Esa Kirkkopelto: "Scène phénoménologique"
プラトンとカントに根拠を求める、"préséance"なるものの定義について。
芸術におけるミメーシスには限界があると思われるが、何がその臨界点を定めるのか?

みなさま、もう少し勉学に励んでから再考させていただきます。
敬具。

p.s. ひとつ言えることは、2006年、Institut finlandaisで上演された、キルッコペルト率いるフィンランド劇団の上演には、脳みそをグルグルさせてくれる力がみなぎっていた。強烈に面白かったです。
数人が同時に行う詩の朗読+観客との偶発的な接触(完全なる偶然性の追求。よくあるhappenning風味ではない。床に体育座りさせられた観客は、宇宙に散らばる小隕石となった俳優にとって、邪魔ですらあった・・・)。その上演のおわりに、怪しげな宇宙体験装置で、観客と一緒に遊んだのは、いったい何だったの??

舞台や観客席や幕や暗闇は必要ない。
どんどん先に行って欲しい、そうして、追いかけていきたい、と思わせられる人の一人である。
Esa, Bravo!