2009/03/27

『繻子の靴』という世界

25日、26日と二夜連続でO. ピィ演出の『繻子の靴・完全版』を観た。

一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。

ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。

世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。

技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。

楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。


『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。

そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。

舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。

"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)

それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。