2009/10/18

"Nous sommes incapables de représenter".

面白いものを見たという確信は、泥沼的な日常に差しのべられた力強い手だと感じる。
それが何か自分の抱いている漠然とした疑問に応えてくれるものだからではなくて、
疑問そのものを肯定してくれるような場合に、こういうことが起こる。

面白い芝居とは、ある問いの提示だということなのだと思う。
それが観客には一種、天啓のように受け取られる。

一番最近に見たFrançois Verretの"Do you remember, No I don't"は、まさにそれだった。
ハイナー・ミュラーのテクストPaysage avec argonautes(アルゴ船員のいる風景)をきれぎれに響かせながら、荒廃した世界の断片的風景が眼前に投げつけられる。

灰を拾う異邦人、車椅子の老人、巨大な照明機材(スヴォヴォダだった)とシーソーをして戯れる青年(”わたし”と”機械”とどちらが本当の身体を持っているのだろう?無機物と有機物の美しすぎて不思議な均衡)、高層ビルの谷間で踊り続ける若者、ばかげて明るいテレビ司会者、病院から抜け出したような白衣の少女。

モンタージュされた風景に、通奏低音のような狂気のノイズを奏でるピアニストが加わる。
実際このピアニスト(Sévrine Chavrier)は目を見張るものがあって、演技と音楽を完全にものにしている。
ピアノを壊す勢いで長い長い弦を木片で弾いたり、うめきながら至るところを叩く狂乱の最中に、ほんの一節、鍵盤が高音域で奏でる小さく遠いメロディが、泣きたいくらい綺麗だった。
”世界が別の様相を帯びていた時へのノスタルジー”(Heiner Müller)とはこのことだと思う。

この人はピアノがない時でも、後ろの方に出てきてシャベルで土を掘ったりしていたが、高度に計算されたリズムで、素晴らしい生の効果音を生み出していた。

テクストを読む途切れがちな、どもった声も印象的。
感情のこもらない声で、混沌とした世界の背後から"Qui suis-je? Qui? Moi, moi, moi ..."などと響いてくる。

あるいは、"Nous sommes incapables de représenter"という明言が、観客がまさにそう感じた瞬間に、すっと降ってきたりする。
世界はもう、断片化されたノスタルジーという形でしか再現されえないのか。
現実はすでに、フィクションの領域を超えてしまったのだ・・・

パンフレットを読むと、またしてもapocalypseの文字。
どうやら今期、フランスの劇場は”起きてしまった悲劇”を再現することの不可能性や、その意義について模索しているようである。