2009/10/20

ひねくれテルジエフ

オデオン座にてC. シャレッティ演出の『ピロクテテス』。

Philoctète: Laurent Terzieff
Néoptolème: David Mambouch
Ulysse: Johan Leysen
etc.

広い舞台の額縁部分にバーンと一枚、銀板の幕が下りている。
筋がはいっているので、そのうちピロクテテスが岩山から出てくる頃に開くのだろうと思っていたら、最後の最後までそのままで、あと10分のところで、ヘラクレスが登場する時にようやく後ろへ向けて開かれた。(”神々しさ”はこれで演出されたと言えるのだろうか?)
パンフレットには、古代ギリシアさながらに”前舞台・オルケストラー・スケーネー”を分けて演じさせた”境界の悲劇tragédie du seuil”、などと書いてあるが、はっきりいって単につまらないだけのセノグラフィである。
いろんな人が寝ていた。寝ないけれども気持ちは分かる。

なにしろテルジエフに魅せられてしまっていたので、こちらは寝るどころではなかったが、その他の俳優にテクストを”言う”以外の演技が要求されていないため、えらく単調であった。

すべての年季のはいった観客がテルジエフのみのために集まっていると考えてもおかしくないような芝居だった。
それだけ他がつまらず、それだけテルジエフが素晴らしかった。
彼だけ別の空気を吸って生きている、というのがピロクテテスという役柄からのみならず、俳優そのものから匂い立っていた。
一人きりで生きてきた人間。純粋ゆえに奇妙にひねくれてしまった心。
枯れ木のような身体と病的な動きがそれを体現している。

テクストを書いたJ.-P. シメオンも、演出のシャレッティも、ピロクテテス=テルジエフという定式を信じたらしいが、その点は本当に成功したのだろう。
彼を見るためだけにそこにいたが、確かにそれでも構わなかった。

途中からある考えが浮かんで離れなくなってしまったが、まあ実現はないだろうな・・・

果たしてこの老いたテルジエフほど、ベケットの『エンドゲーム』に出てくるHammをうまく演じられる人間がいまこの世に存在するのだろうか??
そのものだという気がしてならない。

おそらく『ピロクテテス』を読んだシャレッティやシメオンも同じように感じたことだろう。
いたわしい人間の孤独を体現したような人なのだ。