2009/11/11

水面をゆらすのは何か

ピナ・バウシュが亡くなって4カ月。
初めてタンツテアターを目撃する。
今朝から出ていた微熱が吹っ飛んだ。
カタルシスを感じた。

見ているだけで感情が”浄化”されることなんてあるわけないと思うかもしれない。
音と、声と、身体とが、ただある状況の中で演じているのだったらそうかもしれない。
しかし、ここには偶然性と自然がある。
目の前で繰り広げられる光景に純粋に驚き、自然の作りだす瞬間的な美しさに目をみはる時、その世界の一部になってしまわない人間がいるのだろうか?

Vollmond(日本公演では『フルムーン』)は、2006年作。
舞台の右奥に、大きな岩がおかれてあり、途中からざんざんと舞台上に降ってくる雨で、その下には湖ができる。
はじめのうちこの湖はただそこにある。
ダンサーたちは空っぽのペットボトルを思い切り振り上げ、振り下げ、ふぉん、ふぉん、という音を鳴らしているだけ、空っぽのグラスは余興のための道具にすぎない。
しかし、時がたつにつれ、ダンサーたちはずるずると水にひきずりこまれていく。
ウェイターは手に持ったグラスから溢れるまで水を注ぎ、
口いっぱいに水をふくんだ男たちは、互いの顔にひっかけあい、
女性の頭のうえに空のコップをのせた男は、わざわざ離れて水鉄砲で撃ち落とす。

この親水力と同時に、ダンサー?俳優?たちの感情の解放も進んでいく。
笑う、叫ぶ、突っ走る、キスする、抱き合う、踊り狂う。
コミカルで日常的な動作は、徐々に速度を増し、日常を超えた異様な内部をさらしていく。
ひとつひとつの動作が何度も繰り返され、感情の解放の瞬間が観客の目に焼き付けられる。
観客の感情の解放は、段階的に、人工的になされる。
ひとつひとつ、スイッチを解除されていく感じがある。

やがて彼らは、一列にそろって水中を進み、すべての儀式が終了したかのように、水と戯れ始める。
黒い長髪の女性(背は小さいがタイ人もびっくりの手先の柔らかさ、とにかくエロチックでキュート)が水中で踊る様は圧巻としか言いようがない。
振り乱した髪についた水滴が、ライトを受けて、宙に光る孤を描く。
彼女の一挙手、一投足に水が弾け飛び、一瞬ごとに、異なるイメージが現れ、重なり、次々と消えていく。

自然は幾何学的に完全であり、人間は不完全である。
身体は非対称で、不透明で、生々しく鈍重で、内なる水に抗っている。
自然のままで自然ではいられない、人間の悲しさは美しい。
極限まで身体機能を高めたダンサーたちは人工的に自然に近付くけれども、水そのものには到達できないのである。
内なる自然と外部の自然との境界をなす皮膚につつまれた水分は燃えたぎって、今や溢れんばかりになっている。

観客が目にしているのは、この張りつめて震えている境界である。

この時、ほんものの水の力を借りて、水面下の世界は、すでに舞台に現れていると言えるのだろう。

いままで、何を見ていたんだろう。

総立ちの拍手に値するものは存在する。