2009/11/20

愛と憎しみの海

9月末に見たオリヴィエ・ピィの『Les Enfants de Saturne サトゥルヌスの子供たち』。

パリ17区、アトリエ・ベルティエならではの演出。
アポカリプスと言いながらも、いつもながらのファンタスティックな様相を帯びたピィ演劇が、”360°回転座席”で見られる。

場面が変わるごとに暗転したり幕が下りたりするわけではなく、すでにセットされている背景に俳優が移動するとともに、客席が回転し、われわれ観客の視線も自然に動くようになっているというわけだ。

別々の場所がひとところに表わされ、ある場所からある場所への移行はこちらの想像力によって補われる(はず)、という中世フランスの併置舞台のようであるが、勝手に座席が動いてくれるご時世、この提案の面白さは科学の進歩と観客の怠惰さにちょっぴり負けている気もする。

とはいえ、舞台と客席の関係の分かりやすく大がかりな転覆は、演劇の歴史そのものを演出に織り込んでくるピィならではのアイディアだと言える。

周りはすでに舞台の海(クジラだって登場する)、入ってきたときの道はフィクションの波に呑まれ、現実の客席は漕ぎ出でた船のようにぷかぷかと漂っている。
目の前で繰り広げられる情景は、一家族の、そして個人個人の不幸が溶岩のように流れ出してそこここで爆発しているような、熱く苦しいものなのだが、われわれ観客は、涼しい顔でそれを観に来た無実の子羊である。

愛と悪夢のワンダーランド。

しかしながら、”わー。こんなにドロドロしちゃって大変な人たちだなー。”という醒めた姿勢で考えることを要求されない感じは、勝手に動く客席のせいだと思う。これは、ひとときの夢を見せてくれるピィ演劇だけになおのことである。テレビドラマでも見ているようなのだ。見終わったら、はい、おしまい。楽しかったね、という感じ。

もし、これが単に座布団のみを与えられていて、俳優がひとつの背景から別の背景へ移動したときに、自分で姿勢を変えなければならなかったとしたら、どうなるだろう?
オロオロするかもしれない、子羊らしく。
しかし、目の前で(あるいは後ろで)起きていることについていこうと必死になるだろう。
見る行為に対して自分に責任がかかってくる状況を作るということは、大事なのではないだろうか。

この責任感はEsa Kirkkopeltoの舞台に”参加”したときに味わった。
俳優たちがまだそこにはない舞台を、声と動作によってその場で作り上げていっているのを邪魔しないように、あちこち動き回るのが大変だった。
みんな困惑していた。

そうだ、もっと困らせて欲しいんだ。
舞台は夢ですよ、などとぬるまったるいこと言ってないで、現実に、真剣に、完膚なきまでに観客をうちのめして欲しいのだ。
そのくらいしないと、現代人のぼやけた頭は作動しない。

テクストについて言えば、インタビューでピィ自身が語った通り、これは非常に個人的な話という感じがする。信仰心、父・子の関係、それを揺るがす・それゆえの同性愛、近親相姦の欲望。
どこまでが自分に関わるもので、どこからが詩的飛躍かは知らないが、他人を締め出すような濃密な関係性がこのテクストを支配しているのは事実だ。
そのことには恐らく作者自身が気付いている。
というのも、救世主のようにふらりと現れ、ストーリーを展開させていく鍵となる人物、ヌールNour(光という意味)は外から来た者として、この家族を駆け抜け、悩めるウェルギリウスVirgile=サトゥルヌスの息子であるシモンの息子、つまりはこの終末的家族の被害者、を導くのだ。
ヌールは外から来た異邦人でありながら、シモンに対して客観的立場からヴェルギリウスを演じ、いわばウェルギリウスの影(むしろ光なのだが)として家族の内側に入っていく。

他人の苦痛を肩代わりすることを引き受け、自らの傷によってさらに光を増していくような人物である。

最後の場面で、ヌールがヴェルギリウスとともにクジラの背に乗って半裸で水を浴びている姿は、まったく何のことやらと思うほど輝いていた。
が、クジラに乗らずとも、彼の信仰心と詩情は十分に伝わったのにな、という気はする。
ヌールは現実とも空想ともつかない、人間が求める光そのものなのだということを表す、何か別の、一歩引いた表現がほしいラストだった。

すべてが足し算に足し算、といった具合で、溢れんばかりのピィの愛憎がつまった作品なのである。