あまりにも久しぶりに観劇。
生気がよみがえる感あり。
13日、SPACの春の芸術祭、”週末ハシゴ”なるものに則って三演目を観る。
①『半人半獅子ヴィシュヌ神』
ゴーパル・ヴェヌ率いる一座によるインドの古典舞踊クーリヤッタム。
今回はその一分野であるナンギャール・クートゥーで、演奏者のほか演じるのは女性一人である。
ヴィシュヌ神顕現のお話を体、手、眼で語る。
何役も一人で表現するが、表情、仕草が端的に誰を体現しているのかを示している。
女神の慈愛のほほえみ、魔王の尊大な居姿、敬虔な息子の低姿勢。
ヴィシュヌ神の飛び出た眼と全身の痙攣。血走った眼がぎょろぎょろと動くのは、魔王よりも獣らしい。
象に蛇に、次々と言葉もなしに役を演じていく。太鼓のリズム・強弱がそれに応じる。
時折、場面解説に字幕が出たが、どうもしっくりこない。
何もなければ分からない部分もあるかもしれないが、至極単純な話であり、始まる前にゴーパル・ヴェヌ氏が説明をしてくれたものなので、なんとかなる程度でもある。
質疑応答で「動作には手話のように意味があるのか」という質問が出るほど意味深長な動きは、カピラさんの応答では「手の動きには文法さえあって、全てのセンテンスを語ることができる」そうだから、インドの人々には言葉のように動作を読むことができるのかもしれない。
でも日本語の電光掲示板が、素晴らしい清浄な空気を持つ”楕円堂”に溶け込んだカピラさんの神聖さを損なってしまった気がしてならないのですが・・・
印象的だったのは、ポストトークに出てきた時のカピラさんの女性らしさ。
かわいらしい、とさえ思ってしまう。
体の大きさが違って見えるほど、神々を演じている間は中性に近づいているのだろう。
舞台をあとにする際の小さな祈りにも、感銘を受ける。
剣道場を後にする真摯な中学生のようにひたむきだ。
このように舞台に接する人を見ると、なぜか救われた気持ちになってしまう。
②『ブラスティッド』
サラ・ケインのデビュー作、1995年初演。
今回は、フランス人ダニエル・ジャンヌトーによる演出に、SPACの俳優陣が出演。
過剰な性描写、狂気、暴力を扱った恐ろしげなるものと思っていたが、意外とそう恐ろしくもなかった。
・・・どこか空々しいというか。
翻訳劇は某大先生の仰る通り、どうしてもそうなる運命にあるのでしょうか。
一方で生々しさの緩和は、たしかに雨の音と、布施安寿香の非現実的な声の作用でもあると思う。
こういうさわさわと響いている音が、何かヴェールのように舞台の陰惨さを包んでいる感じがして、図らずも心地よい感じがある。
気になったことは、兵士が入ってきて「爆破され」たあと、場面が大きく変わる際の場面転換。
暗転している中、係りの人が本当に文字通り「どたばたと」入ってきて、冷蔵庫を倒したり、灰を撒き散らしたり。長々と準備をしている間がもっていない感じがある。
もし、この「どたばた」が部屋をめちゃくちゃにする暴力的な力を表現する一端を担っているなら、冷蔵庫ひとつ、安全な方向に投げつけるくらいの勢いでやってほしい。
慎重にコンセントにつないでいる様子は、とてもこのような意図があるようには見えない。
もし、単に大急ぎで大きく場面転換をしたのなら、暗転する意味がないほどうるさい。
暗闇のなかとはいえ観客には見えているし、人々の統制されていない息遣いだってわかってしまう。
この目の覚めるような「現実らしさ」に引き替え、次の場面の「陰惨さ」はなんと空々しいことか。
ローラン・ペリエのシャンパンは、空けた途端に会場が酒臭くなって、何本も吸った煙草の匂いと相まって、匂いの演出をしていた気がします。
舞台と客席の間に敷居がなく至近距離で見るBoxシアターならでは?
③『プ・レ・ス』
フランス人、ピエール・リガルによる振付・出演。
400mハードルの選手に、ドキュメンタリー・フィルムの作成、という面白い経歴の振付家。
もっとも、すべてが上演に活かされている。
暗闇に浮き上がる長方形の枠のなかで(=切り取られたフレーム)、足の関節が電気スタンドの首の部分と重なって、バネのように見えてくる振付(=運動原理の追求)。
人間の有機的な身体が逆に機械を模倣しているという印象を植えつける。
どんどん縮小するフレーム内の空間に、半狂乱で跳ねまわるシルエット。
「カフカ的だ」と指摘した観客がいたが、羽がもげたり首がとれてもなお蠢いているような虫を連想させもする。
本来なら逆立ちしているだけなのだが身体の安定性で、天井と床の反転が起きる。
意味の逆転した世界で、虫になり、機械になった人間がネクタイを直し、煙草を片手にポーズを決める。思わずふっと笑ってしまう。
こういう滑稽さは初期のベケットとも通じている。
パイプ椅子の背もたれに頭から突っ込んで三点頭立のようなポーズを決める姿が、どうしてもマーフィーを彷彿とさせる。
揺り椅子に縛り付けられた身体、揺らしすぎて顔面からすっ転んだまま静止・・・
『プ・レ・ス』はロンドンのゲイト・シアターに委嘱されて作ったものだというが、このユーモアの感覚、ダンディズムはまさにロンドン流、ということか。
『マーフィー』もベケットのロンドン滞在をもとに書かれていた。
静岡から帰って翌14日、中野テルプシコールで『幽霊三重奏 テレビのための劇』、『あたしじゃないし、』を観る。佐藤信の鴎座協賛のプロジェクト、「ベケット・カフェ」の第二弾。
①『幽霊三重奏』
翻訳は早稲田グローバルCOEのベケット・ゼミの諸氏。
鈴木章友による演出。
地続きの舞台と客席の間に薄青い紗幕。ここにカメラをとおった映像が映される。
と同時に、透けて見える向こう側の”本物の”舞台で、”生中継”のようにカメラマンが男を撮影している。
テレビ劇なので「ほんとうは舞台でやっちゃいけないと思うのですが」と言う鈴木章友だが、これはこれで主観の多重性が感じられて良かった。
もとは想定外だったようだが、場面を映し出す紗幕が風に揺れているのも、カメラを通した画面の有機性、裏の生の舞台の無機性という対立が感じられて面白い。
パリで最近いくつかベケット作品を演出したBernard Levyも紗幕にテキストを映す演出をしているが、本来の劇が始まると紗幕があがってしまう、というのはいただけないと思っていた。
紗幕越しに見るベケット劇、というのは悪くないと思う。
後期テレビ作品の上演には向いているかもしれない。
宮沢章夫が来ていて、「窓」が窓じゃなくて扉なのはナゼだ、とつっこんでいた。
さらにひとこと全体の感想、「これは窓じゃないって感じ」。
面白いけれど、これじゃない、ということ。
この感想は普段のしゃべり言葉に訳されたNot Iに関するものだったような気がする。
②『あたしじゃないし、』
岡室美奈子による翻訳、川口智子演出。
「出ちゃった!」で始まる今回の上演のための新訳。
話を立ち聞きしていたら、岡室氏によれば「翻訳は使い捨て」だということ。
オカルティズムを研究する自らを茶化して「霊媒翻訳者」と書いているが、彼女の口を通した言葉の響き、リズムは意外にも心地よく(?)怒涛の流れをなしていた。
「・・・てかマジで?うそだよ、そんなわけないじゃん」(と本当に言ったかどうか忘れてしまったが)などという”貧相な言葉”(と誰かが評したらしい)がズラズラと降ってくるのだが、本当に意外なことに不快ではない。
山下順子の声の切れの良さもあって、むしろテンポ良く、テクストの味が感じられる。
BBCで放映されたヴァージョンの印象に近い。
反面、演出。
勢い込んでしゃべっている動きがばれてしまうゴミ袋のドレス、カツラは余計だとしか言いようがない。
対話を意識したというが、「口」と「聞き手」の間に数メートルもない正面切った関係性、というのも考え難い。その上、「聞き手」に終始明るいライトが当たっているのもなあ・・・
狭い空間で演じるからこそ、もっと薄暗くて良かったのではないか。
この明るさは、「ベケットは抽象的で難解で高尚なもの」では”ない”とする岡室氏の意向もあるのか・・・
それぞれ分解してばらばらに配置しなおしたら、すごく良いもの、というか、「これだ!」になる気がする。
2009/06/14
2009/04/20
Pierre NOTTE × 鈴木康司
20日、恵比寿の日仏会館にて講演会"Comédie française hier et aujour'huit"を聴く。
中央大名誉i教授の鈴木康司とコメディ・フランセーズのsecrétaire généralであるPierre NOTTEの対談。
前半は350年の歴史を一気に説明するも、中世風の並列舞台の様子や、その後取り入れたイタリア式額縁舞台の様子を描いたものを見ることができたのは、なかなか面白かった。
灯油に芯を入れて火をつけただけの無数のフットライトがスカラムーシュを照らしていた。
当時ろうそくのシャンデリアだったわけだが、いつも疑問に思うのは、上演中うっかり、ろうが落ちてきたりしなかったのだろうか、ということ。たぶんしたんだろうな。
18世紀のおわりには反射鏡やケンケ燈の発明で進歩が見られたらしいが、1799年に劇場は火事で焼失しているのもうなずける当時の照明である。床や衣装にろうが垂れるくらい当り前か。
とはいえ、ケムそうだけれども、最初から最後まで火に照らされる芝居、一度観てみたい。
最近、オデオン座(『繻子の靴』)やコメディ・フランセーズ(『シラノ・ド・ベルジュラック』)では大がかりな炎の演出があって、その時は舞台の照明も消していたが、やはり火の光の揺らめきというのは特別な感興ををそそる。
明るすぎず、有機的な照明、というのもいい。
後半、ようやくノット氏が口火を切る。というか、話す場を与えられる。
爽やか美男、ずいぶん若そうに見えるが、Le Figaroいわく"Un dandy acide"。
質疑応答の際にちらりとその手腕を見せてくれる。
ある女性が、サルコジ政権になったことでコメディ・フランセーズにはどのような影響があったか、という質問をしたところ、
「今年からUbu roiがレパートリーに入ったよ」
と答えてニッコリ。
文化を解さない政治人間、というレッテルをはられ、長身の素敵な女性と「終始からみあって」新作のリハーサルを観に来た大統領より、同日に来たカトリーヌ・ドヌーブのお相手を務めるのに暇がなかったらしい。
実際、ノット氏はMoi aussi, je suis Catherine Deneuveという劇でモリエール賞をもらっている。
ノット氏によるコメディ・フランセーズのミニ情報:
①2006年、コメディ・フランセーズはオリヴィエ・ピイに依頼して、Les Enfants de Saturneという劇を書いてもらったらしいが、査読委員会はこれを斥けた。作品は2007年にActes Sudから出版されている。
②2002年にコメディ・フランセーズ入りした黒人俳優Bakary Sangaréが演じた『タルチュフ』のオルゴンに対し、100通以上の抗議の手紙が届いたという。今日でも、この劇場ではbienséanceが求められているし、存在するらしい。この人はピーター・ブルックのところにいた俳優。
人種問題は伝統を守るべきコメディ・フランセーズには避けがたい問題なのだろうか、L'affaire Koltèsなる事件も勃発。アラブ人の俳優がいない、という状況で『砂漠への回帰』を上演することへの抗議。
③現代フランス劇を取り入れる努力をする中で、VinaverやLagarceの劇は成功裏に終わったが、超・現代的な演出を施したコルネイユのL'illusion comiqueは、観客を取り逃がした。よくわからないものの中に理解できる部分を見出すのはいいが、理解している(と信じている)ものをゆがめられるのは許せない、という観客心理だろうか。
④2011年、新たに生まれ変わるため、リシュリュー劇場は休館します。
中央大名誉i教授の鈴木康司とコメディ・フランセーズのsecrétaire généralであるPierre NOTTEの対談。
前半は350年の歴史を一気に説明するも、中世風の並列舞台の様子や、その後取り入れたイタリア式額縁舞台の様子を描いたものを見ることができたのは、なかなか面白かった。
灯油に芯を入れて火をつけただけの無数のフットライトがスカラムーシュを照らしていた。
当時ろうそくのシャンデリアだったわけだが、いつも疑問に思うのは、上演中うっかり、ろうが落ちてきたりしなかったのだろうか、ということ。たぶんしたんだろうな。
18世紀のおわりには反射鏡やケンケ燈の発明で進歩が見られたらしいが、1799年に劇場は火事で焼失しているのもうなずける当時の照明である。床や衣装にろうが垂れるくらい当り前か。
とはいえ、ケムそうだけれども、最初から最後まで火に照らされる芝居、一度観てみたい。
最近、オデオン座(『繻子の靴』)やコメディ・フランセーズ(『シラノ・ド・ベルジュラック』)では大がかりな炎の演出があって、その時は舞台の照明も消していたが、やはり火の光の揺らめきというのは特別な感興ををそそる。
明るすぎず、有機的な照明、というのもいい。
後半、ようやくノット氏が口火を切る。というか、話す場を与えられる。
爽やか美男、ずいぶん若そうに見えるが、Le Figaroいわく"Un dandy acide"。
質疑応答の際にちらりとその手腕を見せてくれる。
ある女性が、サルコジ政権になったことでコメディ・フランセーズにはどのような影響があったか、という質問をしたところ、
「今年からUbu roiがレパートリーに入ったよ」
と答えてニッコリ。
文化を解さない政治人間、というレッテルをはられ、長身の素敵な女性と「終始からみあって」新作のリハーサルを観に来た大統領より、同日に来たカトリーヌ・ドヌーブのお相手を務めるのに暇がなかったらしい。
実際、ノット氏はMoi aussi, je suis Catherine Deneuveという劇でモリエール賞をもらっている。
ノット氏によるコメディ・フランセーズのミニ情報:
①2006年、コメディ・フランセーズはオリヴィエ・ピイに依頼して、Les Enfants de Saturneという劇を書いてもらったらしいが、査読委員会はこれを斥けた。作品は2007年にActes Sudから出版されている。
②2002年にコメディ・フランセーズ入りした黒人俳優Bakary Sangaréが演じた『タルチュフ』のオルゴンに対し、100通以上の抗議の手紙が届いたという。今日でも、この劇場ではbienséanceが求められているし、存在するらしい。この人はピーター・ブルックのところにいた俳優。
人種問題は伝統を守るべきコメディ・フランセーズには避けがたい問題なのだろうか、L'affaire Koltèsなる事件も勃発。アラブ人の俳優がいない、という状況で『砂漠への回帰』を上演することへの抗議。
③現代フランス劇を取り入れる努力をする中で、VinaverやLagarceの劇は成功裏に終わったが、超・現代的な演出を施したコルネイユのL'illusion comiqueは、観客を取り逃がした。よくわからないものの中に理解できる部分を見出すのはいいが、理解している(と信じている)ものをゆがめられるのは許せない、という観客心理だろうか。
④2011年、新たに生まれ変わるため、リシュリュー劇場は休館します。
2009/03/30
ゆっくり語るベケット
ベケット劇の2公演。
①21日、パリ日本文化会館にて。
舞踏との二本立てで『あのとき』、『言葉なき行為II』、『ロッカバイ』。
演出:Philippe Lanton
振付:Katsura Kan (桂勘)
出演:Le Cartel
全体的にぼんやりした印象。
・『あのとき』の声は、よどみなく機械的に流れてくるものなのではないだろうか??
文節をくぎって、分かりやすく語ることで観客の耳には言葉として残るけれども、あれだけ間延びしていたら、もとから上演に向かないとされる戯曲の何もかもを駄目にしてしまう気がするが・・・。
・『言葉なき行為II』は、躁鬱的な男二人の対比が弱くてこれも面白みに欠ける。
その上、相違を音楽によって表わそうとしているのが現代の演出の逃げとも感じられ、より不快である。行為で表わさなくてどうするんだ?
2006年Bouffes du Nordでのブルック演出は、本当に滑稽で悲愴で、それぞれともかくも生きている二人に愛着を感じたものである。
・『ロッカバイ』も同様、テンポが悪くてとらえどころがない。眠い。
"Encore"と言うたびに近づいてくる工夫もあるが、時間もかかってますます間延びしていた。
②28日、Athénée-Théâtre Louis Jouvetにて『ゴドーを待ちながら』。
演出:Bernard Levy
ヴラジーミル:Gilles Arnbona
エストラゴン:Thierry Bosc
ラッキー:Georges Ser
ポッツォ:Patrick Zimmermann
男の子:Garlan Le Martelot
ここの劇場のGrande Salleはベケット劇を上演するには舞台の奥行きがありすぎるだろうと思っていたが、灰色の壁で舞台を囲んで狭めてあった。
究極の二択。
舞台が広すぎるとおかしい。というのも、一本の道と一本の木があるきりの空間が身上の戯曲であるのに、どこへでも行けそうな様相になってしまう。
かといって、わざわざ区切っても、空間的な境界を感じさせないのが身上の戯曲が台無し。
演出だけでなく、劇場も選んでしまうベケットの気難しさである。
内容的にも演出的にもがんじがらめの状況をどう打破するのか?
(打破する必要はあるのか?)
幕の上がる前、ノスタルジックな音楽とともに、紗幕にテクストを映写。
(これから始まるのは、むかしむかしの物語・・・と言わんばかり。)
ポッツォがマイクを持つ。
ラッキーにスポットライトが当たる。
ひとつひとつの単語をゆっくり発音して、かの狂乱のモノローグをきちんと聴かせつつ、笑いをとる。
(娯楽番組の司会者&出演者としてのポッツォとラッキー)
蹴る、投げる、転ぶ、などの行為には全てマイクを通した効果音がはいる。(不快。)
ベルナール・レヴィの試みは、ベケットを古典文学として過去へ追いやることなんだろうか。
『ゴドー』をtélé-réalitéにしてしまうことで得られるものって何だ?
果たして現代演劇はそうすることでベケット演劇を乗り越えられるのか?
ベケットを理解させる上演をする、ということに意味はあるのか?
滑稽でもの哀しく、何だかわからないものをそのまま劇場に提出したのがベケットではないのか。
・・・あるいはアテネ劇場でゴドーを観る、ということ自体が完全に間違っているとも思う。
①21日、パリ日本文化会館にて。
舞踏との二本立てで『あのとき』、『言葉なき行為II』、『ロッカバイ』。
演出:Philippe Lanton
振付:Katsura Kan (桂勘)
出演:Le Cartel
全体的にぼんやりした印象。
・『あのとき』の声は、よどみなく機械的に流れてくるものなのではないだろうか??
文節をくぎって、分かりやすく語ることで観客の耳には言葉として残るけれども、あれだけ間延びしていたら、もとから上演に向かないとされる戯曲の何もかもを駄目にしてしまう気がするが・・・。
・『言葉なき行為II』は、躁鬱的な男二人の対比が弱くてこれも面白みに欠ける。
その上、相違を音楽によって表わそうとしているのが現代の演出の逃げとも感じられ、より不快である。行為で表わさなくてどうするんだ?
2006年Bouffes du Nordでのブルック演出は、本当に滑稽で悲愴で、それぞれともかくも生きている二人に愛着を感じたものである。
・『ロッカバイ』も同様、テンポが悪くてとらえどころがない。眠い。
"Encore"と言うたびに近づいてくる工夫もあるが、時間もかかってますます間延びしていた。
②28日、Athénée-Théâtre Louis Jouvetにて『ゴドーを待ちながら』。
演出:Bernard Levy
ヴラジーミル:Gilles Arnbona
エストラゴン:Thierry Bosc
ラッキー:Georges Ser
ポッツォ:Patrick Zimmermann
男の子:Garlan Le Martelot
ここの劇場のGrande Salleはベケット劇を上演するには舞台の奥行きがありすぎるだろうと思っていたが、灰色の壁で舞台を囲んで狭めてあった。
究極の二択。
舞台が広すぎるとおかしい。というのも、一本の道と一本の木があるきりの空間が身上の戯曲であるのに、どこへでも行けそうな様相になってしまう。
かといって、わざわざ区切っても、空間的な境界を感じさせないのが身上の戯曲が台無し。
演出だけでなく、劇場も選んでしまうベケットの気難しさである。
内容的にも演出的にもがんじがらめの状況をどう打破するのか?
(打破する必要はあるのか?)
幕の上がる前、ノスタルジックな音楽とともに、紗幕にテクストを映写。
(これから始まるのは、むかしむかしの物語・・・と言わんばかり。)
ポッツォがマイクを持つ。
ラッキーにスポットライトが当たる。
ひとつひとつの単語をゆっくり発音して、かの狂乱のモノローグをきちんと聴かせつつ、笑いをとる。
(娯楽番組の司会者&出演者としてのポッツォとラッキー)
蹴る、投げる、転ぶ、などの行為には全てマイクを通した効果音がはいる。(不快。)
ベルナール・レヴィの試みは、ベケットを古典文学として過去へ追いやることなんだろうか。
『ゴドー』をtélé-réalitéにしてしまうことで得られるものって何だ?
果たして現代演劇はそうすることでベケット演劇を乗り越えられるのか?
ベケットを理解させる上演をする、ということに意味はあるのか?
滑稽でもの哀しく、何だかわからないものをそのまま劇場に提出したのがベケットではないのか。
・・・あるいはアテネ劇場でゴドーを観る、ということ自体が完全に間違っているとも思う。
2009/03/28
『繻子の靴』付記
・・・10時間かかるあれほどの上演を、学生料金15ユーロで観られたことに感動しました。
換算しても2000円以内に収まってしまう。
スペイン黄金時代を字義通りに演出した、すべて金ピカの舞台装置(でもハリボテで裏は煤けていることを見せるのが面白い)、オセローさながら嫉妬に燃えるムーア人ドン・カミーユとドーニャ・プルエーズを取り囲む炎の演出、18人という俳優に3人の楽団。
オデオン座はお金があるなあ、と思わずにいられない。
フランスってすごいですね。やはり。
換算しても2000円以内に収まってしまう。
スペイン黄金時代を字義通りに演出した、すべて金ピカの舞台装置(でもハリボテで裏は煤けていることを見せるのが面白い)、オセローさながら嫉妬に燃えるムーア人ドン・カミーユとドーニャ・プルエーズを取り囲む炎の演出、18人という俳優に3人の楽団。
オデオン座はお金があるなあ、と思わずにいられない。
フランスってすごいですね。やはり。
2009/03/27
『繻子の靴』という世界
25日、26日と二夜連続でO. ピィ演出の『繻子の靴・完全版』を観た。
一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。
ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。
世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。
技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。
楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。
『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。
そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。
舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。
"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)
それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。
一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。
ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。
世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。
技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。
楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。
『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。
そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。
舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。
"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)
それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。
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