クロード・レジ演出、ジャン=カンタン・シャトラン主演。
2時間かけて無諧調に口ずさまれ、叫ばれ、つぶやかれる抒情詩。
一生に一度聴けるか、という壮大なモノローグである。
舞台は前方に張り出した鉄筋の桟橋のみ、舞台奥は繭の内部のように曲線を描いて、白い壁に覆われている。
至ってシンプルかつ無機的な薄暗い空間に、男が一人やってきて、歌うかのように語りだす。
左手から舞台へ向けて歩いてくるのろのろとした速度といい、話し出す際の奇妙に間延びした不可思議なアクセントといい、お能のシテを彷彿とさせずにおかない演出。
囃子方の笛そのもののような、声の揺れと強弱も感じさせる。
あるいは、男の語りは読経のようにも聞こえ、笑ってはいけない法事の時に、どうしても途中で噴き出したくなる、あのリズムとアクセントに限りなく似ている。
日本人でなくともこれは可笑しいらしく、時折方々から笑いが漏れる。
とはいえ、極めて口語的な語りであるため、茫然と聴いているだけでも胸苦しくなるような感情がしっかりと伝わってくるし、意味不明の唸りや叫びが直接に語りかけてくる。
無理に理解しようとして失敗せずとも、流れに身を任せているだけでいいのだ。
桟橋に立ち止まった男はそこから2時間、一歩も動かない。
肉体は鎖につながれているが精神は自由を求めている、とでもいえそうな構図で、遠くに見えている(らしい)船に旅立ちを求めて叫ぶ。
"Les eaux m'appellent! "
"Je veux partir avec vous!"
時折使われる"Vous"は、やはり観衆にも向けられていると感じる。”ここ”から立ち去ることができない何かが、観衆=隔たってはいないけれども決して届かない外部の世界に向かって、解放を訴えている。
手はある程度動かすが、足は一歩も動かさないという俳優の束縛状態が作り出す効果は、ベケットの演劇にかなり近いもので、この不毛な身体はひとつの機械、声を発し、精神を存在させている物質であって、精神はもうひとつの不可視の舞台として、別の場所に存在しているように思われてくる。
声だけが確固たる存在のように感じられる瞬間が幾度もある。
それにしても2時間この調子で、何十人かの観客が、執念深い自縛霊のような彼を残して立ち去って行った。彼の精神的強度についていけなかったことは恐らく誰も責められない。
しかしこんな滅多に見られないものを諦めるなんて、勿体無くはある。
日本の行儀のよい観客は、ヨーロッパ人のように立ち去るという選択肢を持っていないように思われるが、果たしてどこまで耐えられるのだろうか。
理解はできない。ただ受け止めるだけで十分すぎるほど十分な芝居だと思う。
2010/03/16
2010/02/01
20-31
1月20日:Pinacothèqueにて、L'Âge d'or hollandaisのエクスポ。
1月26日:Poissyにあるル・コルビュジェの建築Villa Savoye見学。
居住空間は、立った視点と、座った視点とでは随分と違った味わいがある。初めて訪れる場所はどうも緊張してしまうので、落ち着くために一度座って見る。開口部いっぱいにとられたリビングの窓から眺める”屋上庭園”は、冬の曇天のせいか寒々しい。初夏の日差しがある時なんかだったら、本を片手にのんびりソファに寝そべって、子供たちが日光浴をしているのを眺めながら、手でも振ってあげたくなるに違いない。
”明るい時間”と名付けられた別荘ということだが、曇り空にしては確かに室内が明るく、各部屋の窓から入ってくる景色がやけに優しい。うまく自然に溶け込んでいる感じで、室内から眺めても、外から建物を眺めても、空と草木に包まれている。
1月29日:Musée d'Orsay、James Ensor展。
アンソールの自己主張に疲れを感じつつも、マスクをつけた人物たちが策謀をめぐらせているL'intrigueには感嘆。一般的に言って、マスクの下には生身の顔が存在すると思うのだが、アンソールの描くマスクには生身の弱さが透けて見えてこない。仮面の裏には骸骨があるどころか、空虚が口を開けているような気がする。とりつくろわれた表面が、そのまま人間を作ってしまっているような哀しい人物たちで、背筋が寒くなる。べったりした奇妙に明るい色彩も不吉だ。
1月31日:Théâtre de la Ville - Abbessesにて、Bérangère Jannelle演出によるモリエールのAmphitryon。
肉体疲労時の言語劇は睡眠薬である。権力批判、すべての登場人物における自己同一性の揺らぎ・人格の二重化など、耳で聞くにはテーマも混み入っている。2009年の『フィロクテテス』の時の舞台装置を使いまわししていること(台形の大型斜面。側面に穴をあけて、舞台袖のようにも屋内のようにも使うことができるし、紗幕の面には投影もできる)と、ソジーを演じるOlivier Balazucの顔だけ覚えてはいる。
1月26日:Poissyにあるル・コルビュジェの建築Villa Savoye見学。
居住空間は、立った視点と、座った視点とでは随分と違った味わいがある。初めて訪れる場所はどうも緊張してしまうので、落ち着くために一度座って見る。開口部いっぱいにとられたリビングの窓から眺める”屋上庭園”は、冬の曇天のせいか寒々しい。初夏の日差しがある時なんかだったら、本を片手にのんびりソファに寝そべって、子供たちが日光浴をしているのを眺めながら、手でも振ってあげたくなるに違いない。
”明るい時間”と名付けられた別荘ということだが、曇り空にしては確かに室内が明るく、各部屋の窓から入ってくる景色がやけに優しい。うまく自然に溶け込んでいる感じで、室内から眺めても、外から建物を眺めても、空と草木に包まれている。
1月29日:Musée d'Orsay、James Ensor展。
アンソールの自己主張に疲れを感じつつも、マスクをつけた人物たちが策謀をめぐらせているL'intrigueには感嘆。一般的に言って、マスクの下には生身の顔が存在すると思うのだが、アンソールの描くマスクには生身の弱さが透けて見えてこない。仮面の裏には骸骨があるどころか、空虚が口を開けているような気がする。とりつくろわれた表面が、そのまま人間を作ってしまっているような哀しい人物たちで、背筋が寒くなる。べったりした奇妙に明るい色彩も不吉だ。
1月31日:Théâtre de la Ville - Abbessesにて、Bérangère Jannelle演出によるモリエールのAmphitryon。
肉体疲労時の言語劇は睡眠薬である。権力批判、すべての登場人物における自己同一性の揺らぎ・人格の二重化など、耳で聞くにはテーマも混み入っている。2009年の『フィロクテテス』の時の舞台装置を使いまわししていること(台形の大型斜面。側面に穴をあけて、舞台袖のようにも屋内のようにも使うことができるし、紗幕の面には投影もできる)と、ソジーを演じるOlivier Balazucの顔だけ覚えてはいる。
2010/01/27
Cercles/Fictions
1月27日:Bouffes du Nordにて、Jöel PommeratのCercles/Fictions。
1990年に彼自身が立ち上げた劇団Compagnie Louis Brouillardによる上演。
直径10メートルほどの完全な円形のアクティング・エリアは腰高の壁に囲まれており、四方に入・退場の通路を設けてある。この劇場の普段の半円形部分に円形舞台が作られ、舞台部分は客席となっているわけだ。その円形エリアの頭上高くには、これまた円形のトラスが吊られ、ほとんど全ての照明がここに取り付けられている。
舞台はとにかく狭い上に、四方に設けられた客席から見られているため、一方向に向けた舞台装置を置くことは避けられている。この背景を持たない空間に、ある特定の場所の観念を与えていたのは、なかなか凝った照明である。円形の空間にさらに光の円を作って隔離された場所を想起させたり、光の帯で道を作り、細かく散らした光で深い森の内部を表現したりする。客席を完全な闇に沈めているため場内全体が暗く、かなり効果的なイメージができる。
一貫したストーリーはなく、数種類の状況を断片化し、次々と場面にスポットを当てていく。
暗闇にもかかわらず俳優と道具方のスマートな動きに加えて、絶妙なタイミングで暗転・場面転換するため、断片化された場面場面が絶えずテンポよく観客に降りかかってくる。
それぞれが人生における何らかの選択を迫られる瞬間で、濃密な一瞬一瞬を映し出している。
差しのべられた誘惑の手に自ら触れる瞬間や、人が人の心につけいる瞬間を見事にとらえていて、ぞっとしてしまう。間合いと台詞のスピードが合っていると、大した台詞でもないのに、すとんと心に落ちてくる気がする。
俳優たちは多くの部分を早口あるいは遅すぎるくらいのささやき声で語るが、小型マイクをつけることで、ささやきの質は乱されずに親密であると同時に探り合うような残酷な声の効果を生んでいた。
2時間を超える上演は長いと踏んでいたのに、テンポの良さと場面ごとの濃度の高さによって、飽きることもなくついていくことができた。
これだけ狭い円形空間のせいか、背中でも演技している俳優の努力の賜物か、いつにない臨場感が楽しめる上演だったと思う。
1990年に彼自身が立ち上げた劇団Compagnie Louis Brouillardによる上演。
直径10メートルほどの完全な円形のアクティング・エリアは腰高の壁に囲まれており、四方に入・退場の通路を設けてある。この劇場の普段の半円形部分に円形舞台が作られ、舞台部分は客席となっているわけだ。その円形エリアの頭上高くには、これまた円形のトラスが吊られ、ほとんど全ての照明がここに取り付けられている。
舞台はとにかく狭い上に、四方に設けられた客席から見られているため、一方向に向けた舞台装置を置くことは避けられている。この背景を持たない空間に、ある特定の場所の観念を与えていたのは、なかなか凝った照明である。円形の空間にさらに光の円を作って隔離された場所を想起させたり、光の帯で道を作り、細かく散らした光で深い森の内部を表現したりする。客席を完全な闇に沈めているため場内全体が暗く、かなり効果的なイメージができる。
一貫したストーリーはなく、数種類の状況を断片化し、次々と場面にスポットを当てていく。
暗闇にもかかわらず俳優と道具方のスマートな動きに加えて、絶妙なタイミングで暗転・場面転換するため、断片化された場面場面が絶えずテンポよく観客に降りかかってくる。
それぞれが人生における何らかの選択を迫られる瞬間で、濃密な一瞬一瞬を映し出している。
差しのべられた誘惑の手に自ら触れる瞬間や、人が人の心につけいる瞬間を見事にとらえていて、ぞっとしてしまう。間合いと台詞のスピードが合っていると、大した台詞でもないのに、すとんと心に落ちてくる気がする。
俳優たちは多くの部分を早口あるいは遅すぎるくらいのささやき声で語るが、小型マイクをつけることで、ささやきの質は乱されずに親密であると同時に探り合うような残酷な声の効果を生んでいた。
2時間を超える上演は長いと踏んでいたのに、テンポの良さと場面ごとの濃度の高さによって、飽きることもなくついていくことができた。
これだけ狭い円形空間のせいか、背中でも演技している俳優の努力の賜物か、いつにない臨場感が楽しめる上演だったと思う。
たまには後ろも振り返らなければ。
思いだせないくらい放っておいたので、ちゃんと整理してみる。
2009年観たもので、言葉に残せなかったもの。
2010年は、あくまで機械的にメモを取る習性を身につけなくてはならない。
4月29日:国立劇場にて「錦会」公演
日本舞踊をやっている友達の発表会。いつもと違う麗しさがなぜか嬉しい。
5月24日:国立劇場にて文楽『ひらかな盛衰記』
7月27-28日:SPACにてオデオン座来日公演。O. ピィの『グリム童話』(『少女と悪魔と風車小屋』、『いのちの水』、『本物のフィアンセ』 )。
同行通訳として、内側から上演に携わった二度目の経験。一度目が悪夢だっただけに、天変地異が起きた。人生のカタルシスを味わっちゃったら形容する言葉なんて出てこない。でも、これを乗り越えなくてはいけない、というのが今の自分の位置。
心の琴線に触れるセリーヌの歌声と女性らしい茶目っけに惚れ、シルヴィの完璧主義に惚れ、ベンの舞台上での豹変に惚れた。俳優は普通の人間であると同時に、超人でもある。彼らが絶対の信頼を置く・置かざるを得ない照明・道具スタッフは、この超人性を支えている。それぞれ持ち場があり、それぞれが役割を完璧に全うする場に立ち会ってしまった。必然的に、自分自身の役割を痛感することになる。自分はどこにいるのか?通訳は純粋に境界線であって、自分ではない。腑に落ちた。果たして普段の自分はどこへいくのか・・・
7月29日:アテネ・フランセにて、グレゴリー・コージェンツエフ監督の映画『ハムレット』
8月4日:六本木で、チェルフィッチュの山縣太一も出演する『ライン京急』公演
8月5日:アテネ・フランセにて、タルコフスキー監督の映画『鏡』
8月10日:東中野KAZEで、オリヴィエ・コントの一人芝居『年老いたクラウン』
8月18日:千歳船橋のAPOCシアターにて、A La PlaceによるJ.-L. ラガルスの『世界の果てに』
8月20日:東京芸術劇場にて、江戸糸あやつり人形の結城座による『乱歩・白昼夢』
9月8日:Pinacothèque de Parisにて、Utrillo展。
母であるValadonとユトリロの並列展示が興味深い。不遇な境涯だったのね・・・
9月13日:CartoucherieのThéâtre de l'Epée deBoisにて、パゾリーニのCalderon。
9月17日:ソルボンヌにて、コロック"Renaissances de la tragédie"。本当に演劇を観たことがある人たちなのか、と問いたくなるほど見せ場のない発表の数々。
9月22日:ランボーの生誕地Charleville-Mézièresにて、マリオネット祭に遭遇。"Les porteurs de graines"を観る。あの人は毎日、人知れず人形の胴を割って血をとりだす練習をしてたのか・・・と思うとマリオネティストには頭が下がる。
10月6日:Théâtre de la Ville-Abbessesにて、ダヴィッド・レスコーのL'Européenne。言語の差異から見るヨーロッパなるものの不調和。差異はあっても愛はある、らしい。確かにバディウもそう言っている。
10月8日:Théâtre de la Villeにて、Guy Cassiers演出のSous le volcan。ここまで映像に頼ってしまうと、生々しいものが好きな観客には耐えがたいが、酩酊状態の幻覚を表現するのにはうってつけなのかもしれない。でも別に面白くない。
10月14日:Théâtre de la Ville-Abbessesにて、Fabrice MelquiotのWanted Petula。いくら小学生向けの劇だと言っても、子供を馬鹿にするにもほどがある。想像力を壊すぐらいなら、こんなもの観せなくていい。
10月21日:Théâtre de Sartrouvilleにて、Laurent Fréchuret演出によるエウリピデスのMédée。メディア演じるCatherine Germainの狂気はけっこう良い。
11月8日:Atelier Berthierにて、Michael Marmarinosが演出するDimitri DimitriadisのテクストJe meurs comme un pays。俳優とエキストラ合わせて100人近い出演者がいたが、2時間の上演中ほとんど乱れることのない列を形成していて、不思議なまとまりがあった。上演そのものがマニフェスタシオンのようで、個と集団の溶けあうエネルギーが感じられる。話自体はテクストを読まないと分からないので何が面白いというのでもないが、観客にぶつけてくる主張に本物の鋭さがあったように思う。
11月22日:Théâtre du Châteletにて、朝のコンサート。最近ラヴェルの演奏でお気に入りのAlexandre Tharaudくんがミュンヘン室内楽団とともにバッハのコンチェルトを弾く。あくまで繊細、精緻な演奏に日曜の朝から幸せを感じる。
11月25日:ルーブル美術館でやっていたエクスポで、ティッツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットを観る。ティッツィアーノの鏡を覗き込むビーナスが秀逸。布の装飾ひとつとっても光っている。同じく”鏡もの”では、ティントレットの”スザンヌと老人”もちょっと面白い。
12月2日:Théâtre de la Bastilleにて、tgSTANによるLe chemin solitaire。半分素人?と思わせる演技、明らかな即興に面食らう。まだこちらが楽しみ方を覚えていない感じ。
12月15日:Théâtre de Chaillotにて、LePage演出のDragon bleu。いかにも西洋的なオリエンタリズムに嫌気がさすとともに、映像技術を駆使した舞台表現にも眩暈がする。こんなでっちあげを楽しそうに笑っているパリのブルジョワの皆さまにも、げんなりする。家に帰ってテレビでも見てろってんだ。
12月16日:Théâtre de la Villeにて、Jérôme Bel演出によるCédric Andrieuxの自伝的ダンス。
ダンスと、その師M. カニンガムとの出会いをぼそぼそと、親密な口調で語り、たまに踊って見せてくれる。漫才顔負けに面白くて、つい笑ってしまう。上演途中、純粋カニンガム主義のオバサマがさんざんの侮辱に怒り出してやじを飛ばすも、大多数の観客の声援を受け、ダンス芝居は無事終了。そうそう、言いたいことは言えばいいんだ、と爽快な気分を味わう。
12月20日:Théâtre de la Collineにて、Stéphane Braunscheweig演出によるイプセンのRosmelsholm。正統派。内容も古典的なら、演出にも演技にもひっかかるところが一つもない。現代人としては眠い。
12月21日:Théâtre des Champs-Elyséesにて、フラメンコ。ヒロインSara Barasさんの肉体美と”究極の痙攣”を堪能。そのエロティックさに妙に納得してしまい、フラメンコは女性が観るものではないのかもしれないという考えがよぎる。演出はどうみても古臭くて残念。
12月23日:Théâtre de l'Atelierにて、Sami FreyがベケットのテクストPremier amourを一人芝居にアレンジ。天才俳優というのはいるものだ。L. テルジエフと同じ匂いを感じた。
12月27日:Atelier Berthierにて、André Engel演出によるクライストのLa Petite Catherine de Heilbronn。会場全体に漂わせたスモークと、終始ごく暗い照明のせいか、夢現の境が上手にぼかされている。Julie-Marie Parmentier演じるカトリーヌの甲高く子供っぽい声と、華奢な体つきが暗闇に映え、ロマンティックな気分を肯定してくれる。開演前には6月に出会った照明のジョゼに遭遇し、演劇を観る気分も高揚していた。
12月30日:Théâtre de Chaillotにて、A. Preljocaj振付のBlanche Neige。クラシック・バレエの形式を保持したまま、現代的ダンスを取り入れている?奇妙なズレが面白い。7人の小人の群舞、シライ・ナギサ演じる死んだ白雪姫をSergio Diaz演じる王子が踊らせる場面の緊張感はすごい。時折みられる暴力的なしぐさが良い。演出は、"Un ballet narratif"と銘打ってあるが、ストーリーを追うための説明的な部分がバレエでも演劇でもない、無意味な瞬間をいくつも作りだしてしまって、非常に間が悪い感じがした。
さて、ようやく2010年がやってきた気がする。
2009年観たもので、言葉に残せなかったもの。
2010年は、あくまで機械的にメモを取る習性を身につけなくてはならない。
4月29日:国立劇場にて「錦会」公演
日本舞踊をやっている友達の発表会。いつもと違う麗しさがなぜか嬉しい。
5月24日:国立劇場にて文楽『ひらかな盛衰記』
7月27-28日:SPACにてオデオン座来日公演。O. ピィの『グリム童話』(『少女と悪魔と風車小屋』、『いのちの水』、『本物のフィアンセ』 )。
同行通訳として、内側から上演に携わった二度目の経験。一度目が悪夢だっただけに、天変地異が起きた。人生のカタルシスを味わっちゃったら形容する言葉なんて出てこない。でも、これを乗り越えなくてはいけない、というのが今の自分の位置。
心の琴線に触れるセリーヌの歌声と女性らしい茶目っけに惚れ、シルヴィの完璧主義に惚れ、ベンの舞台上での豹変に惚れた。俳優は普通の人間であると同時に、超人でもある。彼らが絶対の信頼を置く・置かざるを得ない照明・道具スタッフは、この超人性を支えている。それぞれ持ち場があり、それぞれが役割を完璧に全うする場に立ち会ってしまった。必然的に、自分自身の役割を痛感することになる。自分はどこにいるのか?通訳は純粋に境界線であって、自分ではない。腑に落ちた。果たして普段の自分はどこへいくのか・・・
7月29日:アテネ・フランセにて、グレゴリー・コージェンツエフ監督の映画『ハムレット』
8月4日:六本木で、チェルフィッチュの山縣太一も出演する『ライン京急』公演
8月5日:アテネ・フランセにて、タルコフスキー監督の映画『鏡』
8月10日:東中野KAZEで、オリヴィエ・コントの一人芝居『年老いたクラウン』
8月18日:千歳船橋のAPOCシアターにて、A La PlaceによるJ.-L. ラガルスの『世界の果てに』
8月20日:東京芸術劇場にて、江戸糸あやつり人形の結城座による『乱歩・白昼夢』
9月8日:Pinacothèque de Parisにて、Utrillo展。
母であるValadonとユトリロの並列展示が興味深い。不遇な境涯だったのね・・・
9月13日:CartoucherieのThéâtre de l'Epée deBoisにて、パゾリーニのCalderon。
9月17日:ソルボンヌにて、コロック"Renaissances de la tragédie"。本当に演劇を観たことがある人たちなのか、と問いたくなるほど見せ場のない発表の数々。
9月22日:ランボーの生誕地Charleville-Mézièresにて、マリオネット祭に遭遇。"Les porteurs de graines"を観る。あの人は毎日、人知れず人形の胴を割って血をとりだす練習をしてたのか・・・と思うとマリオネティストには頭が下がる。
10月6日:Théâtre de la Ville-Abbessesにて、ダヴィッド・レスコーのL'Européenne。言語の差異から見るヨーロッパなるものの不調和。差異はあっても愛はある、らしい。確かにバディウもそう言っている。
10月8日:Théâtre de la Villeにて、Guy Cassiers演出のSous le volcan。ここまで映像に頼ってしまうと、生々しいものが好きな観客には耐えがたいが、酩酊状態の幻覚を表現するのにはうってつけなのかもしれない。でも別に面白くない。
10月14日:Théâtre de la Ville-Abbessesにて、Fabrice MelquiotのWanted Petula。いくら小学生向けの劇だと言っても、子供を馬鹿にするにもほどがある。想像力を壊すぐらいなら、こんなもの観せなくていい。
10月21日:Théâtre de Sartrouvilleにて、Laurent Fréchuret演出によるエウリピデスのMédée。メディア演じるCatherine Germainの狂気はけっこう良い。
11月8日:Atelier Berthierにて、Michael Marmarinosが演出するDimitri DimitriadisのテクストJe meurs comme un pays。俳優とエキストラ合わせて100人近い出演者がいたが、2時間の上演中ほとんど乱れることのない列を形成していて、不思議なまとまりがあった。上演そのものがマニフェスタシオンのようで、個と集団の溶けあうエネルギーが感じられる。話自体はテクストを読まないと分からないので何が面白いというのでもないが、観客にぶつけてくる主張に本物の鋭さがあったように思う。
11月22日:Théâtre du Châteletにて、朝のコンサート。最近ラヴェルの演奏でお気に入りのAlexandre Tharaudくんがミュンヘン室内楽団とともにバッハのコンチェルトを弾く。あくまで繊細、精緻な演奏に日曜の朝から幸せを感じる。
11月25日:ルーブル美術館でやっていたエクスポで、ティッツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットを観る。ティッツィアーノの鏡を覗き込むビーナスが秀逸。布の装飾ひとつとっても光っている。同じく”鏡もの”では、ティントレットの”スザンヌと老人”もちょっと面白い。
12月2日:Théâtre de la Bastilleにて、tgSTANによるLe chemin solitaire。半分素人?と思わせる演技、明らかな即興に面食らう。まだこちらが楽しみ方を覚えていない感じ。
12月15日:Théâtre de Chaillotにて、LePage演出のDragon bleu。いかにも西洋的なオリエンタリズムに嫌気がさすとともに、映像技術を駆使した舞台表現にも眩暈がする。こんなでっちあげを楽しそうに笑っているパリのブルジョワの皆さまにも、げんなりする。家に帰ってテレビでも見てろってんだ。
12月16日:Théâtre de la Villeにて、Jérôme Bel演出によるCédric Andrieuxの自伝的ダンス。
ダンスと、その師M. カニンガムとの出会いをぼそぼそと、親密な口調で語り、たまに踊って見せてくれる。漫才顔負けに面白くて、つい笑ってしまう。上演途中、純粋カニンガム主義のオバサマがさんざんの侮辱に怒り出してやじを飛ばすも、大多数の観客の声援を受け、ダンス芝居は無事終了。そうそう、言いたいことは言えばいいんだ、と爽快な気分を味わう。
12月20日:Théâtre de la Collineにて、Stéphane Braunscheweig演出によるイプセンのRosmelsholm。正統派。内容も古典的なら、演出にも演技にもひっかかるところが一つもない。現代人としては眠い。
12月21日:Théâtre des Champs-Elyséesにて、フラメンコ。ヒロインSara Barasさんの肉体美と”究極の痙攣”を堪能。そのエロティックさに妙に納得してしまい、フラメンコは女性が観るものではないのかもしれないという考えがよぎる。演出はどうみても古臭くて残念。
12月23日:Théâtre de l'Atelierにて、Sami FreyがベケットのテクストPremier amourを一人芝居にアレンジ。天才俳優というのはいるものだ。L. テルジエフと同じ匂いを感じた。
12月27日:Atelier Berthierにて、André Engel演出によるクライストのLa Petite Catherine de Heilbronn。会場全体に漂わせたスモークと、終始ごく暗い照明のせいか、夢現の境が上手にぼかされている。Julie-Marie Parmentier演じるカトリーヌの甲高く子供っぽい声と、華奢な体つきが暗闇に映え、ロマンティックな気分を肯定してくれる。開演前には6月に出会った照明のジョゼに遭遇し、演劇を観る気分も高揚していた。
12月30日:Théâtre de Chaillotにて、A. Preljocaj振付のBlanche Neige。クラシック・バレエの形式を保持したまま、現代的ダンスを取り入れている?奇妙なズレが面白い。7人の小人の群舞、シライ・ナギサ演じる死んだ白雪姫をSergio Diaz演じる王子が踊らせる場面の緊張感はすごい。時折みられる暴力的なしぐさが良い。演出は、"Un ballet narratif"と銘打ってあるが、ストーリーを追うための説明的な部分がバレエでも演劇でもない、無意味な瞬間をいくつも作りだしてしまって、非常に間が悪い感じがした。
さて、ようやく2010年がやってきた気がする。
2009/11/20
愛と憎しみの海
9月末に見たオリヴィエ・ピィの『Les Enfants de Saturne サトゥルヌスの子供たち』。
パリ17区、アトリエ・ベルティエならではの演出。
アポカリプスと言いながらも、いつもながらのファンタスティックな様相を帯びたピィ演劇が、”360°回転座席”で見られる。
場面が変わるごとに暗転したり幕が下りたりするわけではなく、すでにセットされている背景に俳優が移動するとともに、客席が回転し、われわれ観客の視線も自然に動くようになっているというわけだ。
別々の場所がひとところに表わされ、ある場所からある場所への移行はこちらの想像力によって補われる(はず)、という中世フランスの併置舞台のようであるが、勝手に座席が動いてくれるご時世、この提案の面白さは科学の進歩と観客の怠惰さにちょっぴり負けている気もする。
とはいえ、舞台と客席の関係の分かりやすく大がかりな転覆は、演劇の歴史そのものを演出に織り込んでくるピィならではのアイディアだと言える。
周りはすでに舞台の海(クジラだって登場する)、入ってきたときの道はフィクションの波に呑まれ、現実の客席は漕ぎ出でた船のようにぷかぷかと漂っている。
目の前で繰り広げられる情景は、一家族の、そして個人個人の不幸が溶岩のように流れ出してそこここで爆発しているような、熱く苦しいものなのだが、われわれ観客は、涼しい顔でそれを観に来た無実の子羊である。
愛と悪夢のワンダーランド。
しかしながら、”わー。こんなにドロドロしちゃって大変な人たちだなー。”という醒めた姿勢で考えることを要求されない感じは、勝手に動く客席のせいだと思う。これは、ひとときの夢を見せてくれるピィ演劇だけになおのことである。テレビドラマでも見ているようなのだ。見終わったら、はい、おしまい。楽しかったね、という感じ。
もし、これが単に座布団のみを与えられていて、俳優がひとつの背景から別の背景へ移動したときに、自分で姿勢を変えなければならなかったとしたら、どうなるだろう?
オロオロするかもしれない、子羊らしく。
しかし、目の前で(あるいは後ろで)起きていることについていこうと必死になるだろう。
見る行為に対して自分に責任がかかってくる状況を作るということは、大事なのではないだろうか。
この責任感はEsa Kirkkopeltoの舞台に”参加”したときに味わった。
俳優たちがまだそこにはない舞台を、声と動作によってその場で作り上げていっているのを邪魔しないように、あちこち動き回るのが大変だった。
みんな困惑していた。
そうだ、もっと困らせて欲しいんだ。
舞台は夢ですよ、などとぬるまったるいこと言ってないで、現実に、真剣に、完膚なきまでに観客をうちのめして欲しいのだ。
そのくらいしないと、現代人のぼやけた頭は作動しない。
テクストについて言えば、インタビューでピィ自身が語った通り、これは非常に個人的な話という感じがする。信仰心、父・子の関係、それを揺るがす・それゆえの同性愛、近親相姦の欲望。
どこまでが自分に関わるもので、どこからが詩的飛躍かは知らないが、他人を締め出すような濃密な関係性がこのテクストを支配しているのは事実だ。
そのことには恐らく作者自身が気付いている。
というのも、救世主のようにふらりと現れ、ストーリーを展開させていく鍵となる人物、ヌールNour(光という意味)は外から来た者として、この家族を駆け抜け、悩めるウェルギリウスVirgile=サトゥルヌスの息子であるシモンの息子、つまりはこの終末的家族の被害者、を導くのだ。
ヌールは外から来た異邦人でありながら、シモンに対して客観的立場からヴェルギリウスを演じ、いわばウェルギリウスの影(むしろ光なのだが)として家族の内側に入っていく。
他人の苦痛を肩代わりすることを引き受け、自らの傷によってさらに光を増していくような人物である。
最後の場面で、ヌールがヴェルギリウスとともにクジラの背に乗って半裸で水を浴びている姿は、まったく何のことやらと思うほど輝いていた。
が、クジラに乗らずとも、彼の信仰心と詩情は十分に伝わったのにな、という気はする。
ヌールは現実とも空想ともつかない、人間が求める光そのものなのだということを表す、何か別の、一歩引いた表現がほしいラストだった。
すべてが足し算に足し算、といった具合で、溢れんばかりのピィの愛憎がつまった作品なのである。
パリ17区、アトリエ・ベルティエならではの演出。
アポカリプスと言いながらも、いつもながらのファンタスティックな様相を帯びたピィ演劇が、”360°回転座席”で見られる。
場面が変わるごとに暗転したり幕が下りたりするわけではなく、すでにセットされている背景に俳優が移動するとともに、客席が回転し、われわれ観客の視線も自然に動くようになっているというわけだ。
別々の場所がひとところに表わされ、ある場所からある場所への移行はこちらの想像力によって補われる(はず)、という中世フランスの併置舞台のようであるが、勝手に座席が動いてくれるご時世、この提案の面白さは科学の進歩と観客の怠惰さにちょっぴり負けている気もする。
とはいえ、舞台と客席の関係の分かりやすく大がかりな転覆は、演劇の歴史そのものを演出に織り込んでくるピィならではのアイディアだと言える。
周りはすでに舞台の海(クジラだって登場する)、入ってきたときの道はフィクションの波に呑まれ、現実の客席は漕ぎ出でた船のようにぷかぷかと漂っている。
目の前で繰り広げられる情景は、一家族の、そして個人個人の不幸が溶岩のように流れ出してそこここで爆発しているような、熱く苦しいものなのだが、われわれ観客は、涼しい顔でそれを観に来た無実の子羊である。
愛と悪夢のワンダーランド。
しかしながら、”わー。こんなにドロドロしちゃって大変な人たちだなー。”という醒めた姿勢で考えることを要求されない感じは、勝手に動く客席のせいだと思う。これは、ひとときの夢を見せてくれるピィ演劇だけになおのことである。テレビドラマでも見ているようなのだ。見終わったら、はい、おしまい。楽しかったね、という感じ。
もし、これが単に座布団のみを与えられていて、俳優がひとつの背景から別の背景へ移動したときに、自分で姿勢を変えなければならなかったとしたら、どうなるだろう?
オロオロするかもしれない、子羊らしく。
しかし、目の前で(あるいは後ろで)起きていることについていこうと必死になるだろう。
見る行為に対して自分に責任がかかってくる状況を作るということは、大事なのではないだろうか。
この責任感はEsa Kirkkopeltoの舞台に”参加”したときに味わった。
俳優たちがまだそこにはない舞台を、声と動作によってその場で作り上げていっているのを邪魔しないように、あちこち動き回るのが大変だった。
みんな困惑していた。
そうだ、もっと困らせて欲しいんだ。
舞台は夢ですよ、などとぬるまったるいこと言ってないで、現実に、真剣に、完膚なきまでに観客をうちのめして欲しいのだ。
そのくらいしないと、現代人のぼやけた頭は作動しない。
テクストについて言えば、インタビューでピィ自身が語った通り、これは非常に個人的な話という感じがする。信仰心、父・子の関係、それを揺るがす・それゆえの同性愛、近親相姦の欲望。
どこまでが自分に関わるもので、どこからが詩的飛躍かは知らないが、他人を締め出すような濃密な関係性がこのテクストを支配しているのは事実だ。
そのことには恐らく作者自身が気付いている。
というのも、救世主のようにふらりと現れ、ストーリーを展開させていく鍵となる人物、ヌールNour(光という意味)は外から来た者として、この家族を駆け抜け、悩めるウェルギリウスVirgile=サトゥルヌスの息子であるシモンの息子、つまりはこの終末的家族の被害者、を導くのだ。
ヌールは外から来た異邦人でありながら、シモンに対して客観的立場からヴェルギリウスを演じ、いわばウェルギリウスの影(むしろ光なのだが)として家族の内側に入っていく。
他人の苦痛を肩代わりすることを引き受け、自らの傷によってさらに光を増していくような人物である。
最後の場面で、ヌールがヴェルギリウスとともにクジラの背に乗って半裸で水を浴びている姿は、まったく何のことやらと思うほど輝いていた。
が、クジラに乗らずとも、彼の信仰心と詩情は十分に伝わったのにな、という気はする。
ヌールは現実とも空想ともつかない、人間が求める光そのものなのだということを表す、何か別の、一歩引いた表現がほしいラストだった。
すべてが足し算に足し算、といった具合で、溢れんばかりのピィの愛憎がつまった作品なのである。
2009/11/11
水面をゆらすのは何か
ピナ・バウシュが亡くなって4カ月。
初めてタンツテアターを目撃する。
今朝から出ていた微熱が吹っ飛んだ。
カタルシスを感じた。
見ているだけで感情が”浄化”されることなんてあるわけないと思うかもしれない。
音と、声と、身体とが、ただある状況の中で演じているのだったらそうかもしれない。
しかし、ここには偶然性と自然がある。
目の前で繰り広げられる光景に純粋に驚き、自然の作りだす瞬間的な美しさに目をみはる時、その世界の一部になってしまわない人間がいるのだろうか?
Vollmond(日本公演では『フルムーン』)は、2006年作。
舞台の右奥に、大きな岩がおかれてあり、途中からざんざんと舞台上に降ってくる雨で、その下には湖ができる。
はじめのうちこの湖はただそこにある。
ダンサーたちは空っぽのペットボトルを思い切り振り上げ、振り下げ、ふぉん、ふぉん、という音を鳴らしているだけ、空っぽのグラスは余興のための道具にすぎない。
しかし、時がたつにつれ、ダンサーたちはずるずると水にひきずりこまれていく。
ウェイターは手に持ったグラスから溢れるまで水を注ぎ、
口いっぱいに水をふくんだ男たちは、互いの顔にひっかけあい、
女性の頭のうえに空のコップをのせた男は、わざわざ離れて水鉄砲で撃ち落とす。
この親水力と同時に、ダンサー?俳優?たちの感情の解放も進んでいく。
笑う、叫ぶ、突っ走る、キスする、抱き合う、踊り狂う。
コミカルで日常的な動作は、徐々に速度を増し、日常を超えた異様な内部をさらしていく。
ひとつひとつの動作が何度も繰り返され、感情の解放の瞬間が観客の目に焼き付けられる。
観客の感情の解放は、段階的に、人工的になされる。
ひとつひとつ、スイッチを解除されていく感じがある。
やがて彼らは、一列にそろって水中を進み、すべての儀式が終了したかのように、水と戯れ始める。
黒い長髪の女性(背は小さいがタイ人もびっくりの手先の柔らかさ、とにかくエロチックでキュート)が水中で踊る様は圧巻としか言いようがない。
振り乱した髪についた水滴が、ライトを受けて、宙に光る孤を描く。
彼女の一挙手、一投足に水が弾け飛び、一瞬ごとに、異なるイメージが現れ、重なり、次々と消えていく。
自然は幾何学的に完全であり、人間は不完全である。
身体は非対称で、不透明で、生々しく鈍重で、内なる水に抗っている。
自然のままで自然ではいられない、人間の悲しさは美しい。
極限まで身体機能を高めたダンサーたちは人工的に自然に近付くけれども、水そのものには到達できないのである。
内なる自然と外部の自然との境界をなす皮膚につつまれた水分は燃えたぎって、今や溢れんばかりになっている。
観客が目にしているのは、この張りつめて震えている境界である。
この時、ほんものの水の力を借りて、水面下の世界は、すでに舞台に現れていると言えるのだろう。
いままで、何を見ていたんだろう。
総立ちの拍手に値するものは存在する。
初めてタンツテアターを目撃する。
今朝から出ていた微熱が吹っ飛んだ。
カタルシスを感じた。
見ているだけで感情が”浄化”されることなんてあるわけないと思うかもしれない。
音と、声と、身体とが、ただある状況の中で演じているのだったらそうかもしれない。
しかし、ここには偶然性と自然がある。
目の前で繰り広げられる光景に純粋に驚き、自然の作りだす瞬間的な美しさに目をみはる時、その世界の一部になってしまわない人間がいるのだろうか?
Vollmond(日本公演では『フルムーン』)は、2006年作。
舞台の右奥に、大きな岩がおかれてあり、途中からざんざんと舞台上に降ってくる雨で、その下には湖ができる。
はじめのうちこの湖はただそこにある。
ダンサーたちは空っぽのペットボトルを思い切り振り上げ、振り下げ、ふぉん、ふぉん、という音を鳴らしているだけ、空っぽのグラスは余興のための道具にすぎない。
しかし、時がたつにつれ、ダンサーたちはずるずると水にひきずりこまれていく。
ウェイターは手に持ったグラスから溢れるまで水を注ぎ、
口いっぱいに水をふくんだ男たちは、互いの顔にひっかけあい、
女性の頭のうえに空のコップをのせた男は、わざわざ離れて水鉄砲で撃ち落とす。
この親水力と同時に、ダンサー?俳優?たちの感情の解放も進んでいく。
笑う、叫ぶ、突っ走る、キスする、抱き合う、踊り狂う。
コミカルで日常的な動作は、徐々に速度を増し、日常を超えた異様な内部をさらしていく。
ひとつひとつの動作が何度も繰り返され、感情の解放の瞬間が観客の目に焼き付けられる。
観客の感情の解放は、段階的に、人工的になされる。
ひとつひとつ、スイッチを解除されていく感じがある。
やがて彼らは、一列にそろって水中を進み、すべての儀式が終了したかのように、水と戯れ始める。
黒い長髪の女性(背は小さいがタイ人もびっくりの手先の柔らかさ、とにかくエロチックでキュート)が水中で踊る様は圧巻としか言いようがない。
振り乱した髪についた水滴が、ライトを受けて、宙に光る孤を描く。
彼女の一挙手、一投足に水が弾け飛び、一瞬ごとに、異なるイメージが現れ、重なり、次々と消えていく。
自然は幾何学的に完全であり、人間は不完全である。
身体は非対称で、不透明で、生々しく鈍重で、内なる水に抗っている。
自然のままで自然ではいられない、人間の悲しさは美しい。
極限まで身体機能を高めたダンサーたちは人工的に自然に近付くけれども、水そのものには到達できないのである。
内なる自然と外部の自然との境界をなす皮膚につつまれた水分は燃えたぎって、今や溢れんばかりになっている。
観客が目にしているのは、この張りつめて震えている境界である。
この時、ほんものの水の力を借りて、水面下の世界は、すでに舞台に現れていると言えるのだろう。
いままで、何を見ていたんだろう。
総立ちの拍手に値するものは存在する。
2009/10/20
ひねくれテルジエフ
オデオン座にてC. シャレッティ演出の『ピロクテテス』。
Philoctète: Laurent Terzieff
Néoptolème: David Mambouch
Ulysse: Johan Leysen
etc.
広い舞台の額縁部分にバーンと一枚、銀板の幕が下りている。
筋がはいっているので、そのうちピロクテテスが岩山から出てくる頃に開くのだろうと思っていたら、最後の最後までそのままで、あと10分のところで、ヘラクレスが登場する時にようやく後ろへ向けて開かれた。(”神々しさ”はこれで演出されたと言えるのだろうか?)
パンフレットには、古代ギリシアさながらに”前舞台・オルケストラー・スケーネー”を分けて演じさせた”境界の悲劇tragédie du seuil”、などと書いてあるが、はっきりいって単につまらないだけのセノグラフィである。
いろんな人が寝ていた。寝ないけれども気持ちは分かる。
なにしろテルジエフに魅せられてしまっていたので、こちらは寝るどころではなかったが、その他の俳優にテクストを”言う”以外の演技が要求されていないため、えらく単調であった。
すべての年季のはいった観客がテルジエフのみのために集まっていると考えてもおかしくないような芝居だった。
それだけ他がつまらず、それだけテルジエフが素晴らしかった。
彼だけ別の空気を吸って生きている、というのがピロクテテスという役柄からのみならず、俳優そのものから匂い立っていた。
一人きりで生きてきた人間。純粋ゆえに奇妙にひねくれてしまった心。
枯れ木のような身体と病的な動きがそれを体現している。
テクストを書いたJ.-P. シメオンも、演出のシャレッティも、ピロクテテス=テルジエフという定式を信じたらしいが、その点は本当に成功したのだろう。
彼を見るためだけにそこにいたが、確かにそれでも構わなかった。
途中からある考えが浮かんで離れなくなってしまったが、まあ実現はないだろうな・・・
果たしてこの老いたテルジエフほど、ベケットの『エンドゲーム』に出てくるHammをうまく演じられる人間がいまこの世に存在するのだろうか??
そのものだという気がしてならない。
おそらく『ピロクテテス』を読んだシャレッティやシメオンも同じように感じたことだろう。
いたわしい人間の孤独を体現したような人なのだ。
Philoctète: Laurent Terzieff
Néoptolème: David Mambouch
Ulysse: Johan Leysen
etc.
広い舞台の額縁部分にバーンと一枚、銀板の幕が下りている。
筋がはいっているので、そのうちピロクテテスが岩山から出てくる頃に開くのだろうと思っていたら、最後の最後までそのままで、あと10分のところで、ヘラクレスが登場する時にようやく後ろへ向けて開かれた。(”神々しさ”はこれで演出されたと言えるのだろうか?)
パンフレットには、古代ギリシアさながらに”前舞台・オルケストラー・スケーネー”を分けて演じさせた”境界の悲劇tragédie du seuil”、などと書いてあるが、はっきりいって単につまらないだけのセノグラフィである。
いろんな人が寝ていた。寝ないけれども気持ちは分かる。
なにしろテルジエフに魅せられてしまっていたので、こちらは寝るどころではなかったが、その他の俳優にテクストを”言う”以外の演技が要求されていないため、えらく単調であった。
すべての年季のはいった観客がテルジエフのみのために集まっていると考えてもおかしくないような芝居だった。
それだけ他がつまらず、それだけテルジエフが素晴らしかった。
彼だけ別の空気を吸って生きている、というのがピロクテテスという役柄からのみならず、俳優そのものから匂い立っていた。
一人きりで生きてきた人間。純粋ゆえに奇妙にひねくれてしまった心。
枯れ木のような身体と病的な動きがそれを体現している。
テクストを書いたJ.-P. シメオンも、演出のシャレッティも、ピロクテテス=テルジエフという定式を信じたらしいが、その点は本当に成功したのだろう。
彼を見るためだけにそこにいたが、確かにそれでも構わなかった。
途中からある考えが浮かんで離れなくなってしまったが、まあ実現はないだろうな・・・
果たしてこの老いたテルジエフほど、ベケットの『エンドゲーム』に出てくるHammをうまく演じられる人間がいまこの世に存在するのだろうか??
そのものだという気がしてならない。
おそらく『ピロクテテス』を読んだシャレッティやシメオンも同じように感じたことだろう。
いたわしい人間の孤独を体現したような人なのだ。
2009/10/18
"Nous sommes incapables de représenter".
面白いものを見たという確信は、泥沼的な日常に差しのべられた力強い手だと感じる。
それが何か自分の抱いている漠然とした疑問に応えてくれるものだからではなくて、
疑問そのものを肯定してくれるような場合に、こういうことが起こる。
面白い芝居とは、ある問いの提示だということなのだと思う。
それが観客には一種、天啓のように受け取られる。
一番最近に見たFrançois Verretの"Do you remember, No I don't"は、まさにそれだった。
ハイナー・ミュラーのテクストPaysage avec argonautes(アルゴ船員のいる風景)をきれぎれに響かせながら、荒廃した世界の断片的風景が眼前に投げつけられる。
灰を拾う異邦人、車椅子の老人、巨大な照明機材(スヴォヴォダだった)とシーソーをして戯れる青年(”わたし”と”機械”とどちらが本当の身体を持っているのだろう?無機物と有機物の美しすぎて不思議な均衡)、高層ビルの谷間で踊り続ける若者、ばかげて明るいテレビ司会者、病院から抜け出したような白衣の少女。
モンタージュされた風景に、通奏低音のような狂気のノイズを奏でるピアニストが加わる。
実際このピアニスト(Sévrine Chavrier)は目を見張るものがあって、演技と音楽を完全にものにしている。
ピアノを壊す勢いで長い長い弦を木片で弾いたり、うめきながら至るところを叩く狂乱の最中に、ほんの一節、鍵盤が高音域で奏でる小さく遠いメロディが、泣きたいくらい綺麗だった。
”世界が別の様相を帯びていた時へのノスタルジー”(Heiner Müller)とはこのことだと思う。
この人はピアノがない時でも、後ろの方に出てきてシャベルで土を掘ったりしていたが、高度に計算されたリズムで、素晴らしい生の効果音を生み出していた。
テクストを読む途切れがちな、どもった声も印象的。
感情のこもらない声で、混沌とした世界の背後から"Qui suis-je? Qui? Moi, moi, moi ..."などと響いてくる。
あるいは、"Nous sommes incapables de représenter"という明言が、観客がまさにそう感じた瞬間に、すっと降ってきたりする。
世界はもう、断片化されたノスタルジーという形でしか再現されえないのか。
現実はすでに、フィクションの領域を超えてしまったのだ・・・
パンフレットを読むと、またしてもapocalypseの文字。
どうやら今期、フランスの劇場は”起きてしまった悲劇”を再現することの不可能性や、その意義について模索しているようである。
それが何か自分の抱いている漠然とした疑問に応えてくれるものだからではなくて、
疑問そのものを肯定してくれるような場合に、こういうことが起こる。
面白い芝居とは、ある問いの提示だということなのだと思う。
それが観客には一種、天啓のように受け取られる。
一番最近に見たFrançois Verretの"Do you remember, No I don't"は、まさにそれだった。
ハイナー・ミュラーのテクストPaysage avec argonautes(アルゴ船員のいる風景)をきれぎれに響かせながら、荒廃した世界の断片的風景が眼前に投げつけられる。
灰を拾う異邦人、車椅子の老人、巨大な照明機材(スヴォヴォダだった)とシーソーをして戯れる青年(”わたし”と”機械”とどちらが本当の身体を持っているのだろう?無機物と有機物の美しすぎて不思議な均衡)、高層ビルの谷間で踊り続ける若者、ばかげて明るいテレビ司会者、病院から抜け出したような白衣の少女。
モンタージュされた風景に、通奏低音のような狂気のノイズを奏でるピアニストが加わる。
実際このピアニスト(Sévrine Chavrier)は目を見張るものがあって、演技と音楽を完全にものにしている。
ピアノを壊す勢いで長い長い弦を木片で弾いたり、うめきながら至るところを叩く狂乱の最中に、ほんの一節、鍵盤が高音域で奏でる小さく遠いメロディが、泣きたいくらい綺麗だった。
”世界が別の様相を帯びていた時へのノスタルジー”(Heiner Müller)とはこのことだと思う。
この人はピアノがない時でも、後ろの方に出てきてシャベルで土を掘ったりしていたが、高度に計算されたリズムで、素晴らしい生の効果音を生み出していた。
テクストを読む途切れがちな、どもった声も印象的。
感情のこもらない声で、混沌とした世界の背後から"Qui suis-je? Qui? Moi, moi, moi ..."などと響いてくる。
あるいは、"Nous sommes incapables de représenter"という明言が、観客がまさにそう感じた瞬間に、すっと降ってきたりする。
世界はもう、断片化されたノスタルジーという形でしか再現されえないのか。
現実はすでに、フィクションの領域を超えてしまったのだ・・・
パンフレットを読むと、またしてもapocalypseの文字。
どうやら今期、フランスの劇場は”起きてしまった悲劇”を再現することの不可能性や、その意義について模索しているようである。
2009/09/16
"Philoctète" by C. Schiaretti
O. ピィが17区のアトリエ・ベルティエで『サトゥルヌスの子供たち』をやっている間、
5区のオデオン座では、C. シャレッティが『ピロクテテス』(Philoctète)を演出する。
今シーズンは11月にThéâtre de la Villeでも、J. ジュルドゥイユ演出で『ピロクテテス』がかかる。
いったい何の偶然かと思うのだが、シャレッティはJ.-P. シメオンが翻案したものを、
ジュルドゥイユはH. ミュラーが書いた『ピロクテテス』をJ.-L. ベッソンが翻訳したものを、それぞれ演出するのだ。
シャレッティは、パリの国立高等演劇学校でJ. ヴィラールやC. レジに師事し、1991年から2001年までランスの国立演劇センターのディレクター(D. ゲヌーンの後を引き継いだことになる)、2002年から現職で、リヨン郊外Villeurbanneに移された(1972年)国立民衆劇場(TNP)のディレクターを務めている。
ふむ。
シメオンの『ピロクテテス』に関してシャレッティのインタビューを読んでみる。
"悲劇性の場としての言語"
クリスティアン・シャレッティは『ピロクテテス』で、ローラン・テルジエフを演出する。
彼自身がジャン・ピエール・シメオンに翻案を依頼した、ソフォクレスの作品。
席の予約は必然である。
La Terrasse(T) : あなたは『ピロクテテス』が型破りの悲劇だとおっしゃいます。なぜでしょうか?
Christian Scharetti(C. S.) : 悲劇という割り当てに疑問符をつけたって構わないくらいでしょう。その構造、テーマ体系、指示対象、状況において、『ピロクテテス』は型破りで不気味です。ひとつには、これは人間の悲劇だからです。次に、ハッピーエンドであり、解決できない葛藤に貫かれていない。
そしてこの悲劇はユーモアと、不条理と滑稽味に満ちてもいるからです。
T : それではどこに悲劇性があるのでしょう?
C. S. : 言語のなかです。ソフォクレスはソフィストの論法が最盛期の時代に書いたのです。ほとんどすべての台詞が二重の意味を持っています。意味を決定することはできません、まるで言語が恒常的な両義性のなかで、肯定することが可能な場ではなくなってしまったかのように。悲劇性は言葉のなかにあるというのは、言葉がうまれた瞬間から、真実は嘘になってしまうからです。言葉はセイレーンなんです。
T : ピロクテテスとは何者なんでしょうか?
C. S. : ピロクテテスは悪徳が痛めつけた人間です。毒蛇に咬まれ、苦痛と壊疽に胸をえぐられ、仲間に捨てられて、彼は人間と神とを呪います。彼の内には根本的なアナーキズムがあるのです。徳の追求を繰り返すなかで、非社交性が、彼を強情で不敬な、原初の動物的な状態に連れ戻していきます。彼は追放され、もはや戦いに再び加わることはありません。彼は自分の回想録の中での反乱を余儀なくされます。彼の眼前にはオデュッセウスが、嘘に頼ることの必要性を知っている役割の実用主義と、政治的な原動力とはなりえない怨恨を消す必要性のなかにたたずんでいます。その間を行ったり来たり、バランスがとれるまで続きます。
T : なぜテルジエフがピロクテテスを演じるのでしょう?
C. S. : テルジエフは現代演劇の世界において、特殊な地位にあります。テルジエフはピトエフなんです。『詐欺師』の神話、美しくも反逆的な若さの神話なんです。テルジエフはまた、誰にも何も負うことがないような根源的な作品を追い求めた劇団の孤独です。その根源性から観客が読み取るもののなかには、神話性と、彼の偉大さを作り上げているこの隔絶があるのです。この意味で、ピロクテテスを演じながら、彼は明らかに気高さと脆さのなかにあります。なぜテルジエフか?質問になりません。彼がピロクテテスなのですから。
(Catherine Robertによる記述)
5区のオデオン座では、C. シャレッティが『ピロクテテス』(Philoctète)を演出する。
今シーズンは11月にThéâtre de la Villeでも、J. ジュルドゥイユ演出で『ピロクテテス』がかかる。
いったい何の偶然かと思うのだが、シャレッティはJ.-P. シメオンが翻案したものを、
ジュルドゥイユはH. ミュラーが書いた『ピロクテテス』をJ.-L. ベッソンが翻訳したものを、それぞれ演出するのだ。
シャレッティは、パリの国立高等演劇学校でJ. ヴィラールやC. レジに師事し、1991年から2001年までランスの国立演劇センターのディレクター(D. ゲヌーンの後を引き継いだことになる)、2002年から現職で、リヨン郊外Villeurbanneに移された(1972年)国立民衆劇場(TNP)のディレクターを務めている。
ふむ。
シメオンの『ピロクテテス』に関してシャレッティのインタビューを読んでみる。
"悲劇性の場としての言語"
クリスティアン・シャレッティは『ピロクテテス』で、ローラン・テルジエフを演出する。
彼自身がジャン・ピエール・シメオンに翻案を依頼した、ソフォクレスの作品。
席の予約は必然である。
La Terrasse(T) : あなたは『ピロクテテス』が型破りの悲劇だとおっしゃいます。なぜでしょうか?
Christian Scharetti(C. S.) : 悲劇という割り当てに疑問符をつけたって構わないくらいでしょう。その構造、テーマ体系、指示対象、状況において、『ピロクテテス』は型破りで不気味です。ひとつには、これは人間の悲劇だからです。次に、ハッピーエンドであり、解決できない葛藤に貫かれていない。
そしてこの悲劇はユーモアと、不条理と滑稽味に満ちてもいるからです。
T : それではどこに悲劇性があるのでしょう?
C. S. : 言語のなかです。ソフォクレスはソフィストの論法が最盛期の時代に書いたのです。ほとんどすべての台詞が二重の意味を持っています。意味を決定することはできません、まるで言語が恒常的な両義性のなかで、肯定することが可能な場ではなくなってしまったかのように。悲劇性は言葉のなかにあるというのは、言葉がうまれた瞬間から、真実は嘘になってしまうからです。言葉はセイレーンなんです。
T : ピロクテテスとは何者なんでしょうか?
C. S. : ピロクテテスは悪徳が痛めつけた人間です。毒蛇に咬まれ、苦痛と壊疽に胸をえぐられ、仲間に捨てられて、彼は人間と神とを呪います。彼の内には根本的なアナーキズムがあるのです。徳の追求を繰り返すなかで、非社交性が、彼を強情で不敬な、原初の動物的な状態に連れ戻していきます。彼は追放され、もはや戦いに再び加わることはありません。彼は自分の回想録の中での反乱を余儀なくされます。彼の眼前にはオデュッセウスが、嘘に頼ることの必要性を知っている役割の実用主義と、政治的な原動力とはなりえない怨恨を消す必要性のなかにたたずんでいます。その間を行ったり来たり、バランスがとれるまで続きます。
T : なぜテルジエフがピロクテテスを演じるのでしょう?
C. S. : テルジエフは現代演劇の世界において、特殊な地位にあります。テルジエフはピトエフなんです。『詐欺師』の神話、美しくも反逆的な若さの神話なんです。テルジエフはまた、誰にも何も負うことがないような根源的な作品を追い求めた劇団の孤独です。その根源性から観客が読み取るもののなかには、神話性と、彼の偉大さを作り上げているこの隔絶があるのです。この意味で、ピロクテテスを演じながら、彼は明らかに気高さと脆さのなかにあります。なぜテルジエフか?質問になりません。彼がピロクテテスなのですから。
(Catherine Robertによる記述)
2009/09/13
Olivier Py 2009-2010
劇場でLa Terrasseの10月号をもらった。
インタビューを発見したので翻訳してみる。
相も変わらず抽象的で、とりとめがなく、論理的なのか適当なのかわからない発言だけれども、なぜか苦笑してしまい、人に元気をくれるのがこの人のいいところだと思う。
オリヴィエ・ピィがオデオン座のトップに就任して三期目にはいり、オデオン座を演劇の首都に変えていくなかで、ディレクターとして、また詩人として、多様な提案とクリエーションを続けている。
La Terrace (T): 『テーバイの七将』の成功に支えられて、劇場外での公演を続けるわけですね。
Olivier Py (O.P.): 『テーバイの七将』は、本当に小さなものであって、ひとつの試み、ひとつの仮定でした。どこででも上演できるように、ものすごく軽い劇が必要だったんです。しかしまた、野望としては大きな作品であるのと同じくらい、財政的には小さく済む計画が必要だったと言えます。この実験的な冒険において、僕はアイスキュロスの全作品を演出したいと思ってるんです。初めの一歩があまりに熱烈で感動的だったので、続けるしかなかったんですね。これは、アイスキュロスの中に芸術表現の対象を見出したという社会文化的な計画ではありません。むしろまったくの逆でして、このことこそが計画を成功に導いたのです。
T : オデオン座に来て以来、あなたと観衆との関係はどう変わりましたか?
O.P. : 僕は、脱中央集権化のなかで学んだものと共にやって来たのです。国民教育省や組合との関係を再活性化しなければなりませんでした。また、僕らは出版社やINA [フランス国立視聴覚研究所] との結びつきも広げました。割引料金を奨励するような価格形態も設定し、それによってこの劇場が単に消費の場ではなく、講演会や討論のある市民生活の場となるようにしています。僕は、オデオン座が本当に自己を、互いを再発見するような場であってほしいんです。アトリエ・ベルティエに関して言えば、あの界隈で唯一の文化発信の拠点であるわけですが、ここでも上演の時間外にさまざまな活動を繰り広げていくつもりです。
T : 2009-2010年のシーズンは、何らかのテーマをめぐって構成されているのですか?
O.P. : テーマごとのシーズンという考え方はいつもものごとを単純化してしまいます。それはともかく、劇場というのはひとつのスポンジで、世界の議論を吸いこむものなのです。この観点からすると、政治的な問題が今シーズン至る所に張り巡らされていると言えます。まるで今年は、世界という意識がより一層高まっているかのように。しかし極めて重要で、中心にあるのはヨーロッパ的な計画で、ディミトリス・ディミトリアディスという主要だけれども知られていない、この偉大な作家をめぐって構成されています。
僕はひとつのシーズンが、たとえば古典的な形態、規律を乱すような形態、古いものや新しいもの、ヨーロッパの作品やフランスの作品を織り交ぜた多様性に特徴づけられるようなものであるように願っているんです。
T: 今シーズンは『サトゥルヌスの子供たち』で幕をあけますね。この新作についてはどうですか?
O.P. : これは僕の呪われた芝居です。人は時として、自分自身のもっとも黒い部分に近づくことがあるものです。僕は、『イリュージョン・コミック』という喜劇から脱しました。もう笑いには耐えられなかった。
『サトゥルヌスの子供たち』は、今日のフランスにおける偶像の凋落に言及しています。この芝居はひとつの文明の死を語るのです。僕はいくつかのフランス的日常が失われていくことに、強い衝撃を受けました。それらは政治とのある関わりの消滅や、僕自身が傷つきながらも歩んできた文学というものの上に成り立つ世界の消滅を表す、時代の象徴のように思われました。このテクストは難解で、不快で、乱暴で、終末的な芝居と言えますが、陰鬱でありながらも絶望しているわけではありません。
T : それほどの暗さのなかで、希望はどこにあるのでしょうか?
O.P. : すべての惨事において、何かしら明らかになってくるものです。僕は思うのですが、ヨーロッパの未来はそのようにして、南北の対話の中にあるのです。それを僕は、『サトゥルヌスの子供たち』のなかで、老いたサトゥルヌスに束縛されない自由な後継者としてのヌールという人物に寓意化しようとしています。この芝居では、息子たちは父親とうまくいっていません。堂々巡りの世界において、彼らの関係は非常に困難なものとなり、他者を受け入れることができなくなっています。基本的には、僕はいつでも希望はあると信じています。第一に、ある人からほかの人へとそそぐ光を妨げるものは何もないからです。その次に、若さを信じなければならないからです。人は、光や若さをゆがめてしまうことはあるかもしれませんが、それを望むことは妨げられないのです。父は、息子が自分の場所を勝ち取ることを妨げないでしょう。僕らが6月に主催する、若い劇団のためのフェスティバルのタイトルは”待ちきれない”っていうんですよ!
(Catherine Robertによって記録された)
インタビューを発見したので翻訳してみる。
相も変わらず抽象的で、とりとめがなく、論理的なのか適当なのかわからない発言だけれども、なぜか苦笑してしまい、人に元気をくれるのがこの人のいいところだと思う。
彼のジョーカー、『サトゥルヌスの子供たち』は果たしてどこまで連れていってくれるんだろうか?
インタビュー:オリビエ・ピィ
《複数の自分をもつシーズン》オリヴィエ・ピィがオデオン座のトップに就任して三期目にはいり、オデオン座を演劇の首都に変えていくなかで、ディレクターとして、また詩人として、多様な提案とクリエーションを続けている。
La Terrace (T): 『テーバイの七将』の成功に支えられて、劇場外での公演を続けるわけですね。
Olivier Py (O.P.): 『テーバイの七将』は、本当に小さなものであって、ひとつの試み、ひとつの仮定でした。どこででも上演できるように、ものすごく軽い劇が必要だったんです。しかしまた、野望としては大きな作品であるのと同じくらい、財政的には小さく済む計画が必要だったと言えます。この実験的な冒険において、僕はアイスキュロスの全作品を演出したいと思ってるんです。初めの一歩があまりに熱烈で感動的だったので、続けるしかなかったんですね。これは、アイスキュロスの中に芸術表現の対象を見出したという社会文化的な計画ではありません。むしろまったくの逆でして、このことこそが計画を成功に導いたのです。
T : オデオン座に来て以来、あなたと観衆との関係はどう変わりましたか?
O.P. : 僕は、脱中央集権化のなかで学んだものと共にやって来たのです。国民教育省や組合との関係を再活性化しなければなりませんでした。また、僕らは出版社やINA [フランス国立視聴覚研究所] との結びつきも広げました。割引料金を奨励するような価格形態も設定し、それによってこの劇場が単に消費の場ではなく、講演会や討論のある市民生活の場となるようにしています。僕は、オデオン座が本当に自己を、互いを再発見するような場であってほしいんです。アトリエ・ベルティエに関して言えば、あの界隈で唯一の文化発信の拠点であるわけですが、ここでも上演の時間外にさまざまな活動を繰り広げていくつもりです。
T : 2009-2010年のシーズンは、何らかのテーマをめぐって構成されているのですか?
O.P. : テーマごとのシーズンという考え方はいつもものごとを単純化してしまいます。それはともかく、劇場というのはひとつのスポンジで、世界の議論を吸いこむものなのです。この観点からすると、政治的な問題が今シーズン至る所に張り巡らされていると言えます。まるで今年は、世界という意識がより一層高まっているかのように。しかし極めて重要で、中心にあるのはヨーロッパ的な計画で、ディミトリス・ディミトリアディスという主要だけれども知られていない、この偉大な作家をめぐって構成されています。
僕はひとつのシーズンが、たとえば古典的な形態、規律を乱すような形態、古いものや新しいもの、ヨーロッパの作品やフランスの作品を織り交ぜた多様性に特徴づけられるようなものであるように願っているんです。
T: 今シーズンは『サトゥルヌスの子供たち』で幕をあけますね。この新作についてはどうですか?
O.P. : これは僕の呪われた芝居です。人は時として、自分自身のもっとも黒い部分に近づくことがあるものです。僕は、『イリュージョン・コミック』という喜劇から脱しました。もう笑いには耐えられなかった。
『サトゥルヌスの子供たち』は、今日のフランスにおける偶像の凋落に言及しています。この芝居はひとつの文明の死を語るのです。僕はいくつかのフランス的日常が失われていくことに、強い衝撃を受けました。それらは政治とのある関わりの消滅や、僕自身が傷つきながらも歩んできた文学というものの上に成り立つ世界の消滅を表す、時代の象徴のように思われました。このテクストは難解で、不快で、乱暴で、終末的な芝居と言えますが、陰鬱でありながらも絶望しているわけではありません。
T : それほどの暗さのなかで、希望はどこにあるのでしょうか?
O.P. : すべての惨事において、何かしら明らかになってくるものです。僕は思うのですが、ヨーロッパの未来はそのようにして、南北の対話の中にあるのです。それを僕は、『サトゥルヌスの子供たち』のなかで、老いたサトゥルヌスに束縛されない自由な後継者としてのヌールという人物に寓意化しようとしています。この芝居では、息子たちは父親とうまくいっていません。堂々巡りの世界において、彼らの関係は非常に困難なものとなり、他者を受け入れることができなくなっています。基本的には、僕はいつでも希望はあると信じています。第一に、ある人からほかの人へとそそぐ光を妨げるものは何もないからです。その次に、若さを信じなければならないからです。人は、光や若さをゆがめてしまうことはあるかもしれませんが、それを望むことは妨げられないのです。父は、息子が自分の場所を勝ち取ることを妨げないでしょう。僕らが6月に主催する、若い劇団のためのフェスティバルのタイトルは”待ちきれない”っていうんですよ!
(Catherine Robertによって記録された)
2009/08/21
皮膚感覚という信仰
ここひと月ばかりの間に、幾人かの知人と力強い握手を交わした。
別れ際のことだ。
いま、この瞬間が最後だという気がしてしまう。
相手がどう考えていようとも、こちらはなぜか常に「最後にはしないぞ」という姿勢で手を差し出しているにもかかわらず、一期一会の文字を思う。
言い方を変えれば、それでもいいんだ、という気がする瞬間である。
半泣き状態の心境でありながら、なにか確信のようなものを得た心持ちになっていることが多い。
そう、どこかで嬉しいのである。
だから泣けない。
先日、友人に誘われて青山でやっているDialogue in the darkというイベントに参加してきた。
完全な暗闇の中を、視覚障害を持つ案内人と共に散策する、というものである。
1989年にドイツで考案されて以来、ヨーロッパ各国で実施されてきたという催し。
どうやっているのか分からないが、どんなに眼を慣らしても、凝らしても、ひとかけらの光=なにがしかの影、も見えない。
自分が自分を認識できないような闇の中を7人の会ったばかりの人とグループになって歩く。
普段から暗闇がこわい、と思っていた人は、震えるくらい不安になる。
これは経験してみないことには分からないが、ふつうの人も一瞬パニックに陥る。
「声を掛け合って互いの位置を確認し合ってください」
こういう指示が最初から出ていたが、言われずとも声を出していないと、自分がいないようで非常に不安になるので、しゃべりまくる。
独り言も多くなる。が、暗闇はなぜか澄み切ったように静かなので、みんなの独り言がみんなに聞こえてしまう、という状態になる。
案内人の声に従って、(見え)ない橋をわたり、(見え)ないスイカを触り、(見え)ないベンチに腰掛ける。
近くにいると思しき同行者の手をひいて、「ここ」にスイカがあるということを触覚をもって教え合う。
「ここ」がどこなのか、「これ」がスイカなのか、そこにあるのかないのか、触れなければ分からないのだ。(「そこ」という言葉は発される意味すらない)
声を発さない物体は、触れなければ、存在しないということになる。
「触らぬ壁に語りなし」とはよく言ったものである。
視覚障害をもつ案内人は、頼れるものは「音」だと言った。
距離を測るのは音/声しかない。
しかし、眼が見えているはずの者にとって、最も頼れるものは触覚だったと思う。
傲慢であるとも、情けないとも思ってしまうのだが、触ると、「見える」気がするのだ。
暗闇にはいる前に見た、会ったばかりの人たちの姿かたち。
自分が見たことのあるような、触れたことのあるような仕方で想像されるベンチ、テーブル、グラス。
不思議なことにそこには色もついている。
触覚が「見える記憶」を喚起しているようである。
そうして、見えないイメージが眼前に結ばれると、言いようのない幸せな気持ちになる。
それがおそらく実際には違う姿であるとしても、だ。
いや、実際の姿を知らないゆえに想像の可視的世界に遊べる、というのだろうか。
このとき、声は確かに存在を示してくれたけれども、声は距離を埋めてくれない。
自分から離れて誰かがいる、ということを示してくれるのみで、完全に自分に存在を知覚させてくれはしないのだ。
一時間の暗闇散策を終えたころには、恐怖もどこへやら、見える世界が色褪せていた。
名前で呼び合ったグループの人々も、互いに姿を見られまいと(そういう感じがした)、そそくさと帰ってゆく。
暗闇のなかでは、運命共同体的なグループの結束まで感じられてしまったから不思議だ。
見えない、という状況において、演劇のひとつの理想である共同体が生まれてしまったようで、皮肉である。
誰も演じてないし、誰も見えていなかったけれど、なにか同じものを見ている感覚があったのではないだろうか。
要するに、同じものを見ていなくとも、同じ経験をしている瞬間、共同体はあるのではないだろうか。
演劇théâtreの語源と言われるtheatronとは、ギリシア語で「見る場所」であって、論文を読んでいるとしょっちゅう引き合いに出されて、まるでそれが「演劇=見る」という動かぬ証拠であるかのようなのだが、この「見る」はひとつの「経験」として考えられるべきで、具体的な対象を求めてはいけないのかもしれない。
フロイトによれば、「視覚的な印象は、分析の背後で、触覚的印象へと連れ戻されうる」という。
精神的レヴェルにおいて、「見る」は「触れる」につながっているのだ。
ものすごく面白い芝居を見たとき、離れた席にいても、間近で見たように記憶していることがある。
逆に、ものすごく狭い劇場で、至近距離で俳優を眺めていても、まるで遠い出来事のように思えることがある。(先日のAPOCシアターでのラガルス『ただ世界の終り』なんかは好例である。)
どれだけたくさんの言葉を駆使しても、どれだけ飽き足らず顔を眺めていても、触れることに敵う存在感はない。
実際の生活では、手を握ってしまえば心のうちが見えてしまう。気がする。
本当には理解できていないのだろうが、それでも納得できてしまうのだ。
いろいろな感情がふってくるのだが、それでいい、と思える。
一般的な演劇では、触れることができない。
よく観客に触りたがる芝居はあるが、触っちゃったら終わりだろう、と思う。
触れられるならフィクションは必要ないからだ。
見ることで触れさせてくれるような芝居に、今後もっと出会えることを願うばかり。
そういえば、握手してくれた方々はすべて演劇人であった。
触れてはならない身体とつき合っている人々の握手は固い。
しかと受け取りました。
別れ際のことだ。
いま、この瞬間が最後だという気がしてしまう。
相手がどう考えていようとも、こちらはなぜか常に「最後にはしないぞ」という姿勢で手を差し出しているにもかかわらず、一期一会の文字を思う。
言い方を変えれば、それでもいいんだ、という気がする瞬間である。
半泣き状態の心境でありながら、なにか確信のようなものを得た心持ちになっていることが多い。
そう、どこかで嬉しいのである。
だから泣けない。
先日、友人に誘われて青山でやっているDialogue in the darkというイベントに参加してきた。
完全な暗闇の中を、視覚障害を持つ案内人と共に散策する、というものである。
1989年にドイツで考案されて以来、ヨーロッパ各国で実施されてきたという催し。
どうやっているのか分からないが、どんなに眼を慣らしても、凝らしても、ひとかけらの光=なにがしかの影、も見えない。
自分が自分を認識できないような闇の中を7人の会ったばかりの人とグループになって歩く。
普段から暗闇がこわい、と思っていた人は、震えるくらい不安になる。
これは経験してみないことには分からないが、ふつうの人も一瞬パニックに陥る。
「声を掛け合って互いの位置を確認し合ってください」
こういう指示が最初から出ていたが、言われずとも声を出していないと、自分がいないようで非常に不安になるので、しゃべりまくる。
独り言も多くなる。が、暗闇はなぜか澄み切ったように静かなので、みんなの独り言がみんなに聞こえてしまう、という状態になる。
案内人の声に従って、(見え)ない橋をわたり、(見え)ないスイカを触り、(見え)ないベンチに腰掛ける。
近くにいると思しき同行者の手をひいて、「ここ」にスイカがあるということを触覚をもって教え合う。
「ここ」がどこなのか、「これ」がスイカなのか、そこにあるのかないのか、触れなければ分からないのだ。(「そこ」という言葉は発される意味すらない)
声を発さない物体は、触れなければ、存在しないということになる。
「触らぬ壁に語りなし」とはよく言ったものである。
視覚障害をもつ案内人は、頼れるものは「音」だと言った。
距離を測るのは音/声しかない。
しかし、眼が見えているはずの者にとって、最も頼れるものは触覚だったと思う。
傲慢であるとも、情けないとも思ってしまうのだが、触ると、「見える」気がするのだ。
暗闇にはいる前に見た、会ったばかりの人たちの姿かたち。
自分が見たことのあるような、触れたことのあるような仕方で想像されるベンチ、テーブル、グラス。
不思議なことにそこには色もついている。
触覚が「見える記憶」を喚起しているようである。
そうして、見えないイメージが眼前に結ばれると、言いようのない幸せな気持ちになる。
それがおそらく実際には違う姿であるとしても、だ。
いや、実際の姿を知らないゆえに想像の可視的世界に遊べる、というのだろうか。
このとき、声は確かに存在を示してくれたけれども、声は距離を埋めてくれない。
自分から離れて誰かがいる、ということを示してくれるのみで、完全に自分に存在を知覚させてくれはしないのだ。
一時間の暗闇散策を終えたころには、恐怖もどこへやら、見える世界が色褪せていた。
名前で呼び合ったグループの人々も、互いに姿を見られまいと(そういう感じがした)、そそくさと帰ってゆく。
暗闇のなかでは、運命共同体的なグループの結束まで感じられてしまったから不思議だ。
見えない、という状況において、演劇のひとつの理想である共同体が生まれてしまったようで、皮肉である。
誰も演じてないし、誰も見えていなかったけれど、なにか同じものを見ている感覚があったのではないだろうか。
要するに、同じものを見ていなくとも、同じ経験をしている瞬間、共同体はあるのではないだろうか。
演劇théâtreの語源と言われるtheatronとは、ギリシア語で「見る場所」であって、論文を読んでいるとしょっちゅう引き合いに出されて、まるでそれが「演劇=見る」という動かぬ証拠であるかのようなのだが、この「見る」はひとつの「経験」として考えられるべきで、具体的な対象を求めてはいけないのかもしれない。
フロイトによれば、「視覚的な印象は、分析の背後で、触覚的印象へと連れ戻されうる」という。
精神的レヴェルにおいて、「見る」は「触れる」につながっているのだ。
ものすごく面白い芝居を見たとき、離れた席にいても、間近で見たように記憶していることがある。
逆に、ものすごく狭い劇場で、至近距離で俳優を眺めていても、まるで遠い出来事のように思えることがある。(先日のAPOCシアターでのラガルス『ただ世界の終り』なんかは好例である。)
どれだけたくさんの言葉を駆使しても、どれだけ飽き足らず顔を眺めていても、触れることに敵う存在感はない。
実際の生活では、手を握ってしまえば心のうちが見えてしまう。気がする。
本当には理解できていないのだろうが、それでも納得できてしまうのだ。
いろいろな感情がふってくるのだが、それでいい、と思える。
一般的な演劇では、触れることができない。
よく観客に触りたがる芝居はあるが、触っちゃったら終わりだろう、と思う。
触れられるならフィクションは必要ないからだ。
見ることで触れさせてくれるような芝居に、今後もっと出会えることを願うばかり。
そういえば、握手してくれた方々はすべて演劇人であった。
触れてはならない身体とつき合っている人々の握手は固い。
しかと受け取りました。
2009/07/25
ぶらり音楽会
炎天下、世田谷美術館のヴァイオリン・リサイタルに行ってきた。
ヴァイオリンは斎藤咲恵、ピアノは原田恭子のプラハ音楽留学二人組。
世田谷美術館の無料コンサートは、前回痛い目にあったのだけれど、公園の緑を眺めつつぶらりと立ち寄って、ほのぼの音楽鑑賞できるというのが良い。
・・・と思っていたら、今回の腕前は段違いだった。
ヴァイオリンはチャリティ・コンサートどころでなく、ホールで十分通用する迫真の演奏で、ひさびさに鳥肌が立った。
プログラムは全てチェコの作曲家を集めてあり、ドヴォルジャーク以外は初めてだったので新鮮。
Jan Ladislav Dusik(1760-1812):Sonata op.69, no.1
リスト・ショパン・スメタナなどロマン派の先駆者で、古典とロマン派の中間にあるピアノ奏者兼作曲家。
曲は古典らしい明るさと、チェコの民俗音楽の要素が散りばめられている。
ソナタ第三楽章のロンドでは、明るく軽快なポルカのリズムを刻む斎藤さんの微笑のうかんだ顔を見てるだけでウキウキしてくる。
リズム感覚が鋭く、難しい部分をこそ楽しんでいる様子が伝わってきてすっかり乗ってしまう。
Bohuslav Martinu(1890-1959):Sonata pro housle a klavir no.3
チェコとパリで音楽を学び、その後アメリカに移住、著名なチェコ人の例にもれず故郷に帰ることのできなかった一人。
作曲は、やはり!と思わされたが、ドビュッシーに憧れて渡ったパリで、ルーセルやフランス六人組、ストラヴィンスキーの影響を受けているようだ。
無調な感じといい、夜を思わせる神秘的な雰囲気といい、なにしろ印象主義っぽい。
すぐにCDを探したくなる久々のヒットだが、生演奏ゆえのパフォーマンスが重要な曲ともいえる。
ヴァイオリンとピアノの激しい対話が続く第一楽章のあと、第二楽章に現れるチェコの憂愁のメロディが夢のなかで辿り着いた故郷、という感じがして心を揺さぶられる。
留学中にこんなの聞いたら泣いてしまうだろう。
ピアノとヴァイオリンの一騎打ち、とでも言えるような鋭い掛け合いを演じる二人を見ながら、チェコでの音楽留学生活の密度を想像してしまう。
ヴァイオリンの斎藤さんは、オーストリアでのボフスラフ・マルチヌーコンクールで3位入賞、イタリアのアルスノヴァ国際音楽コンクールで優勝、と実力派らしいが、世田谷美術館の無料コンサートにだって一ミリも手を抜いていないのが分かる。
配布された曲目解説も入念に聴きどころが紹介され、近所のおばちゃんや野球帽のおじちゃん相手に真摯に、かつプロのプライドを持って向き合っている。
Antonin Dvorak(1841-1904): Sonatina op.100/Romance op.11
ロマンス作品11のピアノがオルゴールのようで素敵。
この曲は、弦楽四重奏第5番へ短調、op.9、B.37の第二楽章をもとにヴァイオリンとピアノ伴奏用に編曲された。
ドヴォルジャークが結婚前にアンナ・チェルマーコヴァーへの恋心を歌ったものらしく、繊細な動きと情感あふれるメロディが印象的。
斎藤さんはトリルや装飾音をものすごく正確に美しく弾くが、意外にロマン主義的な陶酔感で歌うことは少ない。きりっと冷静なのだ。
Otakar Sevcik(1852-1934): 1. Holka modrooka z Ceskych tancu a napevu
(オタカル・シェフチーク:チェコの踊りと民謡より 第一番”青い目の少女”)
プラハ音楽院の伝説的教師、その教則本はヴァイオリン奏者必携、らしい。
ヴァイオリン未学習者には、どうなっているのかさっぱり分からないような超絶技巧が散りばめられた曲。
楽器のあらゆる可能性を試されている、という事実だけは、はっきり分かる。
そして奏者がかなりの技術の持ち主だということも感じられる。
ピチカート好きとしては実に楽しい逸品だが、分からないなりにもフラジオレットなどは聞いていてハラハラするので、ちょっと心臓に悪い一品でもある。
日本では難解な曲はコンサートで演奏しても客が集まらないという事情があるらしく、どうしても誰もが知っている曲を聴くことになる場合が多い。
そんな中、新たな発見をくれたチェコ一色コンサートはなかなか貴重かもしれない。
室内楽用の平坦なホールで距離感がないのも好もしい。
地域のコンサートは、7月あたまに成城ホールでしっかりお金を払って聴いたギター×ヴィオラ×フルートの演奏のようにフワフワーっとなんとなく「地域住民とともに良い休日を過ごした感」を与えてくれるものかと思っていた。
が、こんなに気合の入ったものを聴かせてもらえる時だってあるのだ。
いつでも本気でいなくちゃ駄目なのだ。
ヴァイオリンは斎藤咲恵、ピアノは原田恭子のプラハ音楽留学二人組。
世田谷美術館の無料コンサートは、前回痛い目にあったのだけれど、公園の緑を眺めつつぶらりと立ち寄って、ほのぼの音楽鑑賞できるというのが良い。
・・・と思っていたら、今回の腕前は段違いだった。
ヴァイオリンはチャリティ・コンサートどころでなく、ホールで十分通用する迫真の演奏で、ひさびさに鳥肌が立った。
プログラムは全てチェコの作曲家を集めてあり、ドヴォルジャーク以外は初めてだったので新鮮。
Jan Ladislav Dusik(1760-1812):Sonata op.69, no.1
リスト・ショパン・スメタナなどロマン派の先駆者で、古典とロマン派の中間にあるピアノ奏者兼作曲家。
曲は古典らしい明るさと、チェコの民俗音楽の要素が散りばめられている。
ソナタ第三楽章のロンドでは、明るく軽快なポルカのリズムを刻む斎藤さんの微笑のうかんだ顔を見てるだけでウキウキしてくる。
リズム感覚が鋭く、難しい部分をこそ楽しんでいる様子が伝わってきてすっかり乗ってしまう。
Bohuslav Martinu(1890-1959):Sonata pro housle a klavir no.3
チェコとパリで音楽を学び、その後アメリカに移住、著名なチェコ人の例にもれず故郷に帰ることのできなかった一人。
作曲は、やはり!と思わされたが、ドビュッシーに憧れて渡ったパリで、ルーセルやフランス六人組、ストラヴィンスキーの影響を受けているようだ。
無調な感じといい、夜を思わせる神秘的な雰囲気といい、なにしろ印象主義っぽい。
すぐにCDを探したくなる久々のヒットだが、生演奏ゆえのパフォーマンスが重要な曲ともいえる。
ヴァイオリンとピアノの激しい対話が続く第一楽章のあと、第二楽章に現れるチェコの憂愁のメロディが夢のなかで辿り着いた故郷、という感じがして心を揺さぶられる。
留学中にこんなの聞いたら泣いてしまうだろう。
ピアノとヴァイオリンの一騎打ち、とでも言えるような鋭い掛け合いを演じる二人を見ながら、チェコでの音楽留学生活の密度を想像してしまう。
ヴァイオリンの斎藤さんは、オーストリアでのボフスラフ・マルチヌーコンクールで3位入賞、イタリアのアルスノヴァ国際音楽コンクールで優勝、と実力派らしいが、世田谷美術館の無料コンサートにだって一ミリも手を抜いていないのが分かる。
配布された曲目解説も入念に聴きどころが紹介され、近所のおばちゃんや野球帽のおじちゃん相手に真摯に、かつプロのプライドを持って向き合っている。
Antonin Dvorak(1841-1904): Sonatina op.100/Romance op.11
ロマンス作品11のピアノがオルゴールのようで素敵。
この曲は、弦楽四重奏第5番へ短調、op.9、B.37の第二楽章をもとにヴァイオリンとピアノ伴奏用に編曲された。
ドヴォルジャークが結婚前にアンナ・チェルマーコヴァーへの恋心を歌ったものらしく、繊細な動きと情感あふれるメロディが印象的。
斎藤さんはトリルや装飾音をものすごく正確に美しく弾くが、意外にロマン主義的な陶酔感で歌うことは少ない。きりっと冷静なのだ。
Otakar Sevcik(1852-1934): 1. Holka modrooka z Ceskych tancu a napevu
(オタカル・シェフチーク:チェコの踊りと民謡より 第一番”青い目の少女”)
プラハ音楽院の伝説的教師、その教則本はヴァイオリン奏者必携、らしい。
ヴァイオリン未学習者には、どうなっているのかさっぱり分からないような超絶技巧が散りばめられた曲。
楽器のあらゆる可能性を試されている、という事実だけは、はっきり分かる。
そして奏者がかなりの技術の持ち主だということも感じられる。
ピチカート好きとしては実に楽しい逸品だが、分からないなりにもフラジオレットなどは聞いていてハラハラするので、ちょっと心臓に悪い一品でもある。
日本では難解な曲はコンサートで演奏しても客が集まらないという事情があるらしく、どうしても誰もが知っている曲を聴くことになる場合が多い。
そんな中、新たな発見をくれたチェコ一色コンサートはなかなか貴重かもしれない。
室内楽用の平坦なホールで距離感がないのも好もしい。
地域のコンサートは、7月あたまに成城ホールでしっかりお金を払って聴いたギター×ヴィオラ×フルートの演奏のようにフワフワーっとなんとなく「地域住民とともに良い休日を過ごした感」を与えてくれるものかと思っていた。
が、こんなに気合の入ったものを聴かせてもらえる時だってあるのだ。
いつでも本気でいなくちゃ駄目なのだ。
2009/07/17
プロペラ
一週間以上前になってしまったが、8日は東京芸術劇場でプロペラを観た。
野田秀樹の芸術監督就任の記念公演第一弾。
演目はシェイクスピア『夏の夜の夢』。
演出はエドワード・ホールで、15年来の野田の友人だという。
男ばかりの劇団で、ワイワイ・ガヤガヤ踊りながら古典の読みなおしを図る・・・
そういう触れ込みだったと思うのだが、意外や意外、とってもお上品な仕上がり。
むさ苦しい体つきの男性陣もいるけれど、パック役・タイターニア役の彼らは綺麗な足をしていて、それなりに可愛らしい。
しかし上品なのは、そういった見かけとは恐らく関係ない。
まず、効果音が生であること。
要所々々で、全員が小さなハーモニカをくわえて吹きながら移動する。
いろんな音階を大人数で一度に吹くので、ざーっと風が通り過ぎたような感じになる。
音って空気だなあと思う。
もうひとつ、舞台装置の奥、左右にグロッケンシュピールが配置されていて、何人かの俳優がこっそり簡単なメロディを奏でたり、「魔法が解けました」と言わんばかりに、チロリーン、と鳴らしたりする。
これは非常に爽やか。
おとぎの国の雰囲気が漂ってくる。
合唱の部分もあるが、誰もつぶれたような声を出したりしないので快適。
もうひとつは、動きがしなやかであること。むやみにバタバタ動かない。
びっくり箱のようなものからパックのしましまタイツが出てきて、ひょっこり登場する様子なんか、音もたてずにやってのけて、さすが妖精、という具合だ。
ひとりひとりの演技レベルが高いのだろう。
・・・
・・・
・・・でも、
でも、それしか覚えていない。
2階席で遠かったのがいけなかったのかもしれない。
芝居がかった同時通訳をたまに聞いてしまっていたからかもしれない。
あるいは上手にできすぎていて、粗忽者は妖精の国に入れてもらえなかったのかもしれない。
はたまた、英語のリスニング能力が低すぎたのか。
ものすごく遠ーい出来事なのだ。
ひとつだけ分かる理由は、丁寧さ・こまやかさの素晴らしさ(ほんとうに素晴らしいと思う)と引き換えに、テンポが遅いからだということ。
面白いことを言っているのに、間があきすぎていて、笑うタイミングがつかめない。
英語を聞かずに、イヤホンの通訳に聞き入っている観客が3分の2ほどいるから、すっかりタイミングもずれて、なおさら誰も笑わない。
これは悲しい。
他にも理由はあるかもしれないが、舞台と客席の間にあそこまで厚い壁がある『夏の夜の夢』というのも不思議だ。
パリのアトリエ・ベルティエでの公演なんかは観客に混ざりたくて仕方がない、という演出だった。
いつかもう一度、本拠地ウォーターミル劇場で観てみたい。
絶対に、どこか違った高揚を感じられるはずだ。
野田秀樹の芸術監督就任の記念公演第一弾。
演目はシェイクスピア『夏の夜の夢』。
演出はエドワード・ホールで、15年来の野田の友人だという。
男ばかりの劇団で、ワイワイ・ガヤガヤ踊りながら古典の読みなおしを図る・・・
そういう触れ込みだったと思うのだが、意外や意外、とってもお上品な仕上がり。
むさ苦しい体つきの男性陣もいるけれど、パック役・タイターニア役の彼らは綺麗な足をしていて、それなりに可愛らしい。
しかし上品なのは、そういった見かけとは恐らく関係ない。
まず、効果音が生であること。
要所々々で、全員が小さなハーモニカをくわえて吹きながら移動する。
いろんな音階を大人数で一度に吹くので、ざーっと風が通り過ぎたような感じになる。
音って空気だなあと思う。
もうひとつ、舞台装置の奥、左右にグロッケンシュピールが配置されていて、何人かの俳優がこっそり簡単なメロディを奏でたり、「魔法が解けました」と言わんばかりに、チロリーン、と鳴らしたりする。
これは非常に爽やか。
おとぎの国の雰囲気が漂ってくる。
合唱の部分もあるが、誰もつぶれたような声を出したりしないので快適。
もうひとつは、動きがしなやかであること。むやみにバタバタ動かない。
びっくり箱のようなものからパックのしましまタイツが出てきて、ひょっこり登場する様子なんか、音もたてずにやってのけて、さすが妖精、という具合だ。
ひとりひとりの演技レベルが高いのだろう。
・・・
・・・
・・・でも、
でも、それしか覚えていない。
2階席で遠かったのがいけなかったのかもしれない。
芝居がかった同時通訳をたまに聞いてしまっていたからかもしれない。
あるいは上手にできすぎていて、粗忽者は妖精の国に入れてもらえなかったのかもしれない。
はたまた、英語のリスニング能力が低すぎたのか。
ものすごく遠ーい出来事なのだ。
ひとつだけ分かる理由は、丁寧さ・こまやかさの素晴らしさ(ほんとうに素晴らしいと思う)と引き換えに、テンポが遅いからだということ。
面白いことを言っているのに、間があきすぎていて、笑うタイミングがつかめない。
英語を聞かずに、イヤホンの通訳に聞き入っている観客が3分の2ほどいるから、すっかりタイミングもずれて、なおさら誰も笑わない。
これは悲しい。
他にも理由はあるかもしれないが、舞台と客席の間にあそこまで厚い壁がある『夏の夜の夢』というのも不思議だ。
パリのアトリエ・ベルティエでの公演なんかは観客に混ざりたくて仕方がない、という演出だった。
いつかもう一度、本拠地ウォーターミル劇場で観てみたい。
絶対に、どこか違った高揚を感じられるはずだ。
2009/06/14
週末ハシゴ=静岡+中野
あまりにも久しぶりに観劇。
生気がよみがえる感あり。
13日、SPACの春の芸術祭、”週末ハシゴ”なるものに則って三演目を観る。
①『半人半獅子ヴィシュヌ神』
ゴーパル・ヴェヌ率いる一座によるインドの古典舞踊クーリヤッタム。
今回はその一分野であるナンギャール・クートゥーで、演奏者のほか演じるのは女性一人である。
ヴィシュヌ神顕現のお話を体、手、眼で語る。
何役も一人で表現するが、表情、仕草が端的に誰を体現しているのかを示している。
女神の慈愛のほほえみ、魔王の尊大な居姿、敬虔な息子の低姿勢。
ヴィシュヌ神の飛び出た眼と全身の痙攣。血走った眼がぎょろぎょろと動くのは、魔王よりも獣らしい。
象に蛇に、次々と言葉もなしに役を演じていく。太鼓のリズム・強弱がそれに応じる。
時折、場面解説に字幕が出たが、どうもしっくりこない。
何もなければ分からない部分もあるかもしれないが、至極単純な話であり、始まる前にゴーパル・ヴェヌ氏が説明をしてくれたものなので、なんとかなる程度でもある。
質疑応答で「動作には手話のように意味があるのか」という質問が出るほど意味深長な動きは、カピラさんの応答では「手の動きには文法さえあって、全てのセンテンスを語ることができる」そうだから、インドの人々には言葉のように動作を読むことができるのかもしれない。
でも日本語の電光掲示板が、素晴らしい清浄な空気を持つ”楕円堂”に溶け込んだカピラさんの神聖さを損なってしまった気がしてならないのですが・・・
印象的だったのは、ポストトークに出てきた時のカピラさんの女性らしさ。
かわいらしい、とさえ思ってしまう。
体の大きさが違って見えるほど、神々を演じている間は中性に近づいているのだろう。
舞台をあとにする際の小さな祈りにも、感銘を受ける。
剣道場を後にする真摯な中学生のようにひたむきだ。
このように舞台に接する人を見ると、なぜか救われた気持ちになってしまう。
②『ブラスティッド』
サラ・ケインのデビュー作、1995年初演。
今回は、フランス人ダニエル・ジャンヌトーによる演出に、SPACの俳優陣が出演。
過剰な性描写、狂気、暴力を扱った恐ろしげなるものと思っていたが、意外とそう恐ろしくもなかった。
・・・どこか空々しいというか。
翻訳劇は某大先生の仰る通り、どうしてもそうなる運命にあるのでしょうか。
一方で生々しさの緩和は、たしかに雨の音と、布施安寿香の非現実的な声の作用でもあると思う。
こういうさわさわと響いている音が、何かヴェールのように舞台の陰惨さを包んでいる感じがして、図らずも心地よい感じがある。
気になったことは、兵士が入ってきて「爆破され」たあと、場面が大きく変わる際の場面転換。
暗転している中、係りの人が本当に文字通り「どたばたと」入ってきて、冷蔵庫を倒したり、灰を撒き散らしたり。長々と準備をしている間がもっていない感じがある。
もし、この「どたばた」が部屋をめちゃくちゃにする暴力的な力を表現する一端を担っているなら、冷蔵庫ひとつ、安全な方向に投げつけるくらいの勢いでやってほしい。
慎重にコンセントにつないでいる様子は、とてもこのような意図があるようには見えない。
もし、単に大急ぎで大きく場面転換をしたのなら、暗転する意味がないほどうるさい。
暗闇のなかとはいえ観客には見えているし、人々の統制されていない息遣いだってわかってしまう。
この目の覚めるような「現実らしさ」に引き替え、次の場面の「陰惨さ」はなんと空々しいことか。
ローラン・ペリエのシャンパンは、空けた途端に会場が酒臭くなって、何本も吸った煙草の匂いと相まって、匂いの演出をしていた気がします。
舞台と客席の間に敷居がなく至近距離で見るBoxシアターならでは?
③『プ・レ・ス』
フランス人、ピエール・リガルによる振付・出演。
400mハードルの選手に、ドキュメンタリー・フィルムの作成、という面白い経歴の振付家。
もっとも、すべてが上演に活かされている。
暗闇に浮き上がる長方形の枠のなかで(=切り取られたフレーム)、足の関節が電気スタンドの首の部分と重なって、バネのように見えてくる振付(=運動原理の追求)。
人間の有機的な身体が逆に機械を模倣しているという印象を植えつける。
どんどん縮小するフレーム内の空間に、半狂乱で跳ねまわるシルエット。
「カフカ的だ」と指摘した観客がいたが、羽がもげたり首がとれてもなお蠢いているような虫を連想させもする。
本来なら逆立ちしているだけなのだが身体の安定性で、天井と床の反転が起きる。
意味の逆転した世界で、虫になり、機械になった人間がネクタイを直し、煙草を片手にポーズを決める。思わずふっと笑ってしまう。
こういう滑稽さは初期のベケットとも通じている。
パイプ椅子の背もたれに頭から突っ込んで三点頭立のようなポーズを決める姿が、どうしてもマーフィーを彷彿とさせる。
揺り椅子に縛り付けられた身体、揺らしすぎて顔面からすっ転んだまま静止・・・
『プ・レ・ス』はロンドンのゲイト・シアターに委嘱されて作ったものだというが、このユーモアの感覚、ダンディズムはまさにロンドン流、ということか。
『マーフィー』もベケットのロンドン滞在をもとに書かれていた。
静岡から帰って翌14日、中野テルプシコールで『幽霊三重奏 テレビのための劇』、『あたしじゃないし、』を観る。佐藤信の鴎座協賛のプロジェクト、「ベケット・カフェ」の第二弾。
①『幽霊三重奏』
翻訳は早稲田グローバルCOEのベケット・ゼミの諸氏。
鈴木章友による演出。
地続きの舞台と客席の間に薄青い紗幕。ここにカメラをとおった映像が映される。
と同時に、透けて見える向こう側の”本物の”舞台で、”生中継”のようにカメラマンが男を撮影している。
テレビ劇なので「ほんとうは舞台でやっちゃいけないと思うのですが」と言う鈴木章友だが、これはこれで主観の多重性が感じられて良かった。
もとは想定外だったようだが、場面を映し出す紗幕が風に揺れているのも、カメラを通した画面の有機性、裏の生の舞台の無機性という対立が感じられて面白い。
パリで最近いくつかベケット作品を演出したBernard Levyも紗幕にテキストを映す演出をしているが、本来の劇が始まると紗幕があがってしまう、というのはいただけないと思っていた。
紗幕越しに見るベケット劇、というのは悪くないと思う。
後期テレビ作品の上演には向いているかもしれない。
宮沢章夫が来ていて、「窓」が窓じゃなくて扉なのはナゼだ、とつっこんでいた。
さらにひとこと全体の感想、「これは窓じゃないって感じ」。
面白いけれど、これじゃない、ということ。
この感想は普段のしゃべり言葉に訳されたNot Iに関するものだったような気がする。
②『あたしじゃないし、』
岡室美奈子による翻訳、川口智子演出。
「出ちゃった!」で始まる今回の上演のための新訳。
話を立ち聞きしていたら、岡室氏によれば「翻訳は使い捨て」だということ。
オカルティズムを研究する自らを茶化して「霊媒翻訳者」と書いているが、彼女の口を通した言葉の響き、リズムは意外にも心地よく(?)怒涛の流れをなしていた。
「・・・てかマジで?うそだよ、そんなわけないじゃん」(と本当に言ったかどうか忘れてしまったが)などという”貧相な言葉”(と誰かが評したらしい)がズラズラと降ってくるのだが、本当に意外なことに不快ではない。
山下順子の声の切れの良さもあって、むしろテンポ良く、テクストの味が感じられる。
BBCで放映されたヴァージョンの印象に近い。
反面、演出。
勢い込んでしゃべっている動きがばれてしまうゴミ袋のドレス、カツラは余計だとしか言いようがない。
対話を意識したというが、「口」と「聞き手」の間に数メートルもない正面切った関係性、というのも考え難い。その上、「聞き手」に終始明るいライトが当たっているのもなあ・・・
狭い空間で演じるからこそ、もっと薄暗くて良かったのではないか。
この明るさは、「ベケットは抽象的で難解で高尚なもの」では”ない”とする岡室氏の意向もあるのか・・・
それぞれ分解してばらばらに配置しなおしたら、すごく良いもの、というか、「これだ!」になる気がする。
生気がよみがえる感あり。
13日、SPACの春の芸術祭、”週末ハシゴ”なるものに則って三演目を観る。
①『半人半獅子ヴィシュヌ神』
ゴーパル・ヴェヌ率いる一座によるインドの古典舞踊クーリヤッタム。
今回はその一分野であるナンギャール・クートゥーで、演奏者のほか演じるのは女性一人である。
ヴィシュヌ神顕現のお話を体、手、眼で語る。
何役も一人で表現するが、表情、仕草が端的に誰を体現しているのかを示している。
女神の慈愛のほほえみ、魔王の尊大な居姿、敬虔な息子の低姿勢。
ヴィシュヌ神の飛び出た眼と全身の痙攣。血走った眼がぎょろぎょろと動くのは、魔王よりも獣らしい。
象に蛇に、次々と言葉もなしに役を演じていく。太鼓のリズム・強弱がそれに応じる。
時折、場面解説に字幕が出たが、どうもしっくりこない。
何もなければ分からない部分もあるかもしれないが、至極単純な話であり、始まる前にゴーパル・ヴェヌ氏が説明をしてくれたものなので、なんとかなる程度でもある。
質疑応答で「動作には手話のように意味があるのか」という質問が出るほど意味深長な動きは、カピラさんの応答では「手の動きには文法さえあって、全てのセンテンスを語ることができる」そうだから、インドの人々には言葉のように動作を読むことができるのかもしれない。
でも日本語の電光掲示板が、素晴らしい清浄な空気を持つ”楕円堂”に溶け込んだカピラさんの神聖さを損なってしまった気がしてならないのですが・・・
印象的だったのは、ポストトークに出てきた時のカピラさんの女性らしさ。
かわいらしい、とさえ思ってしまう。
体の大きさが違って見えるほど、神々を演じている間は中性に近づいているのだろう。
舞台をあとにする際の小さな祈りにも、感銘を受ける。
剣道場を後にする真摯な中学生のようにひたむきだ。
このように舞台に接する人を見ると、なぜか救われた気持ちになってしまう。
②『ブラスティッド』
サラ・ケインのデビュー作、1995年初演。
今回は、フランス人ダニエル・ジャンヌトーによる演出に、SPACの俳優陣が出演。
過剰な性描写、狂気、暴力を扱った恐ろしげなるものと思っていたが、意外とそう恐ろしくもなかった。
・・・どこか空々しいというか。
翻訳劇は某大先生の仰る通り、どうしてもそうなる運命にあるのでしょうか。
一方で生々しさの緩和は、たしかに雨の音と、布施安寿香の非現実的な声の作用でもあると思う。
こういうさわさわと響いている音が、何かヴェールのように舞台の陰惨さを包んでいる感じがして、図らずも心地よい感じがある。
気になったことは、兵士が入ってきて「爆破され」たあと、場面が大きく変わる際の場面転換。
暗転している中、係りの人が本当に文字通り「どたばたと」入ってきて、冷蔵庫を倒したり、灰を撒き散らしたり。長々と準備をしている間がもっていない感じがある。
もし、この「どたばた」が部屋をめちゃくちゃにする暴力的な力を表現する一端を担っているなら、冷蔵庫ひとつ、安全な方向に投げつけるくらいの勢いでやってほしい。
慎重にコンセントにつないでいる様子は、とてもこのような意図があるようには見えない。
もし、単に大急ぎで大きく場面転換をしたのなら、暗転する意味がないほどうるさい。
暗闇のなかとはいえ観客には見えているし、人々の統制されていない息遣いだってわかってしまう。
この目の覚めるような「現実らしさ」に引き替え、次の場面の「陰惨さ」はなんと空々しいことか。
ローラン・ペリエのシャンパンは、空けた途端に会場が酒臭くなって、何本も吸った煙草の匂いと相まって、匂いの演出をしていた気がします。
舞台と客席の間に敷居がなく至近距離で見るBoxシアターならでは?
③『プ・レ・ス』
フランス人、ピエール・リガルによる振付・出演。
400mハードルの選手に、ドキュメンタリー・フィルムの作成、という面白い経歴の振付家。
もっとも、すべてが上演に活かされている。
暗闇に浮き上がる長方形の枠のなかで(=切り取られたフレーム)、足の関節が電気スタンドの首の部分と重なって、バネのように見えてくる振付(=運動原理の追求)。
人間の有機的な身体が逆に機械を模倣しているという印象を植えつける。
どんどん縮小するフレーム内の空間に、半狂乱で跳ねまわるシルエット。
「カフカ的だ」と指摘した観客がいたが、羽がもげたり首がとれてもなお蠢いているような虫を連想させもする。
本来なら逆立ちしているだけなのだが身体の安定性で、天井と床の反転が起きる。
意味の逆転した世界で、虫になり、機械になった人間がネクタイを直し、煙草を片手にポーズを決める。思わずふっと笑ってしまう。
こういう滑稽さは初期のベケットとも通じている。
パイプ椅子の背もたれに頭から突っ込んで三点頭立のようなポーズを決める姿が、どうしてもマーフィーを彷彿とさせる。
揺り椅子に縛り付けられた身体、揺らしすぎて顔面からすっ転んだまま静止・・・
『プ・レ・ス』はロンドンのゲイト・シアターに委嘱されて作ったものだというが、このユーモアの感覚、ダンディズムはまさにロンドン流、ということか。
『マーフィー』もベケットのロンドン滞在をもとに書かれていた。
静岡から帰って翌14日、中野テルプシコールで『幽霊三重奏 テレビのための劇』、『あたしじゃないし、』を観る。佐藤信の鴎座協賛のプロジェクト、「ベケット・カフェ」の第二弾。
①『幽霊三重奏』
翻訳は早稲田グローバルCOEのベケット・ゼミの諸氏。
鈴木章友による演出。
地続きの舞台と客席の間に薄青い紗幕。ここにカメラをとおった映像が映される。
と同時に、透けて見える向こう側の”本物の”舞台で、”生中継”のようにカメラマンが男を撮影している。
テレビ劇なので「ほんとうは舞台でやっちゃいけないと思うのですが」と言う鈴木章友だが、これはこれで主観の多重性が感じられて良かった。
もとは想定外だったようだが、場面を映し出す紗幕が風に揺れているのも、カメラを通した画面の有機性、裏の生の舞台の無機性という対立が感じられて面白い。
パリで最近いくつかベケット作品を演出したBernard Levyも紗幕にテキストを映す演出をしているが、本来の劇が始まると紗幕があがってしまう、というのはいただけないと思っていた。
紗幕越しに見るベケット劇、というのは悪くないと思う。
後期テレビ作品の上演には向いているかもしれない。
宮沢章夫が来ていて、「窓」が窓じゃなくて扉なのはナゼだ、とつっこんでいた。
さらにひとこと全体の感想、「これは窓じゃないって感じ」。
面白いけれど、これじゃない、ということ。
この感想は普段のしゃべり言葉に訳されたNot Iに関するものだったような気がする。
②『あたしじゃないし、』
岡室美奈子による翻訳、川口智子演出。
「出ちゃった!」で始まる今回の上演のための新訳。
話を立ち聞きしていたら、岡室氏によれば「翻訳は使い捨て」だということ。
オカルティズムを研究する自らを茶化して「霊媒翻訳者」と書いているが、彼女の口を通した言葉の響き、リズムは意外にも心地よく(?)怒涛の流れをなしていた。
「・・・てかマジで?うそだよ、そんなわけないじゃん」(と本当に言ったかどうか忘れてしまったが)などという”貧相な言葉”(と誰かが評したらしい)がズラズラと降ってくるのだが、本当に意外なことに不快ではない。
山下順子の声の切れの良さもあって、むしろテンポ良く、テクストの味が感じられる。
BBCで放映されたヴァージョンの印象に近い。
反面、演出。
勢い込んでしゃべっている動きがばれてしまうゴミ袋のドレス、カツラは余計だとしか言いようがない。
対話を意識したというが、「口」と「聞き手」の間に数メートルもない正面切った関係性、というのも考え難い。その上、「聞き手」に終始明るいライトが当たっているのもなあ・・・
狭い空間で演じるからこそ、もっと薄暗くて良かったのではないか。
この明るさは、「ベケットは抽象的で難解で高尚なもの」では”ない”とする岡室氏の意向もあるのか・・・
それぞれ分解してばらばらに配置しなおしたら、すごく良いもの、というか、「これだ!」になる気がする。
2009/04/20
Pierre NOTTE × 鈴木康司
20日、恵比寿の日仏会館にて講演会"Comédie française hier et aujour'huit"を聴く。
中央大名誉i教授の鈴木康司とコメディ・フランセーズのsecrétaire généralであるPierre NOTTEの対談。
前半は350年の歴史を一気に説明するも、中世風の並列舞台の様子や、その後取り入れたイタリア式額縁舞台の様子を描いたものを見ることができたのは、なかなか面白かった。
灯油に芯を入れて火をつけただけの無数のフットライトがスカラムーシュを照らしていた。
当時ろうそくのシャンデリアだったわけだが、いつも疑問に思うのは、上演中うっかり、ろうが落ちてきたりしなかったのだろうか、ということ。たぶんしたんだろうな。
18世紀のおわりには反射鏡やケンケ燈の発明で進歩が見られたらしいが、1799年に劇場は火事で焼失しているのもうなずける当時の照明である。床や衣装にろうが垂れるくらい当り前か。
とはいえ、ケムそうだけれども、最初から最後まで火に照らされる芝居、一度観てみたい。
最近、オデオン座(『繻子の靴』)やコメディ・フランセーズ(『シラノ・ド・ベルジュラック』)では大がかりな炎の演出があって、その時は舞台の照明も消していたが、やはり火の光の揺らめきというのは特別な感興ををそそる。
明るすぎず、有機的な照明、というのもいい。
後半、ようやくノット氏が口火を切る。というか、話す場を与えられる。
爽やか美男、ずいぶん若そうに見えるが、Le Figaroいわく"Un dandy acide"。
質疑応答の際にちらりとその手腕を見せてくれる。
ある女性が、サルコジ政権になったことでコメディ・フランセーズにはどのような影響があったか、という質問をしたところ、
「今年からUbu roiがレパートリーに入ったよ」
と答えてニッコリ。
文化を解さない政治人間、というレッテルをはられ、長身の素敵な女性と「終始からみあって」新作のリハーサルを観に来た大統領より、同日に来たカトリーヌ・ドヌーブのお相手を務めるのに暇がなかったらしい。
実際、ノット氏はMoi aussi, je suis Catherine Deneuveという劇でモリエール賞をもらっている。
ノット氏によるコメディ・フランセーズのミニ情報:
①2006年、コメディ・フランセーズはオリヴィエ・ピイに依頼して、Les Enfants de Saturneという劇を書いてもらったらしいが、査読委員会はこれを斥けた。作品は2007年にActes Sudから出版されている。
②2002年にコメディ・フランセーズ入りした黒人俳優Bakary Sangaréが演じた『タルチュフ』のオルゴンに対し、100通以上の抗議の手紙が届いたという。今日でも、この劇場ではbienséanceが求められているし、存在するらしい。この人はピーター・ブルックのところにいた俳優。
人種問題は伝統を守るべきコメディ・フランセーズには避けがたい問題なのだろうか、L'affaire Koltèsなる事件も勃発。アラブ人の俳優がいない、という状況で『砂漠への回帰』を上演することへの抗議。
③現代フランス劇を取り入れる努力をする中で、VinaverやLagarceの劇は成功裏に終わったが、超・現代的な演出を施したコルネイユのL'illusion comiqueは、観客を取り逃がした。よくわからないものの中に理解できる部分を見出すのはいいが、理解している(と信じている)ものをゆがめられるのは許せない、という観客心理だろうか。
④2011年、新たに生まれ変わるため、リシュリュー劇場は休館します。
中央大名誉i教授の鈴木康司とコメディ・フランセーズのsecrétaire généralであるPierre NOTTEの対談。
前半は350年の歴史を一気に説明するも、中世風の並列舞台の様子や、その後取り入れたイタリア式額縁舞台の様子を描いたものを見ることができたのは、なかなか面白かった。
灯油に芯を入れて火をつけただけの無数のフットライトがスカラムーシュを照らしていた。
当時ろうそくのシャンデリアだったわけだが、いつも疑問に思うのは、上演中うっかり、ろうが落ちてきたりしなかったのだろうか、ということ。たぶんしたんだろうな。
18世紀のおわりには反射鏡やケンケ燈の発明で進歩が見られたらしいが、1799年に劇場は火事で焼失しているのもうなずける当時の照明である。床や衣装にろうが垂れるくらい当り前か。
とはいえ、ケムそうだけれども、最初から最後まで火に照らされる芝居、一度観てみたい。
最近、オデオン座(『繻子の靴』)やコメディ・フランセーズ(『シラノ・ド・ベルジュラック』)では大がかりな炎の演出があって、その時は舞台の照明も消していたが、やはり火の光の揺らめきというのは特別な感興ををそそる。
明るすぎず、有機的な照明、というのもいい。
後半、ようやくノット氏が口火を切る。というか、話す場を与えられる。
爽やか美男、ずいぶん若そうに見えるが、Le Figaroいわく"Un dandy acide"。
質疑応答の際にちらりとその手腕を見せてくれる。
ある女性が、サルコジ政権になったことでコメディ・フランセーズにはどのような影響があったか、という質問をしたところ、
「今年からUbu roiがレパートリーに入ったよ」
と答えてニッコリ。
文化を解さない政治人間、というレッテルをはられ、長身の素敵な女性と「終始からみあって」新作のリハーサルを観に来た大統領より、同日に来たカトリーヌ・ドヌーブのお相手を務めるのに暇がなかったらしい。
実際、ノット氏はMoi aussi, je suis Catherine Deneuveという劇でモリエール賞をもらっている。
ノット氏によるコメディ・フランセーズのミニ情報:
①2006年、コメディ・フランセーズはオリヴィエ・ピイに依頼して、Les Enfants de Saturneという劇を書いてもらったらしいが、査読委員会はこれを斥けた。作品は2007年にActes Sudから出版されている。
②2002年にコメディ・フランセーズ入りした黒人俳優Bakary Sangaréが演じた『タルチュフ』のオルゴンに対し、100通以上の抗議の手紙が届いたという。今日でも、この劇場ではbienséanceが求められているし、存在するらしい。この人はピーター・ブルックのところにいた俳優。
人種問題は伝統を守るべきコメディ・フランセーズには避けがたい問題なのだろうか、L'affaire Koltèsなる事件も勃発。アラブ人の俳優がいない、という状況で『砂漠への回帰』を上演することへの抗議。
③現代フランス劇を取り入れる努力をする中で、VinaverやLagarceの劇は成功裏に終わったが、超・現代的な演出を施したコルネイユのL'illusion comiqueは、観客を取り逃がした。よくわからないものの中に理解できる部分を見出すのはいいが、理解している(と信じている)ものをゆがめられるのは許せない、という観客心理だろうか。
④2011年、新たに生まれ変わるため、リシュリュー劇場は休館します。
2009/03/30
ゆっくり語るベケット
ベケット劇の2公演。
①21日、パリ日本文化会館にて。
舞踏との二本立てで『あのとき』、『言葉なき行為II』、『ロッカバイ』。
演出:Philippe Lanton
振付:Katsura Kan (桂勘)
出演:Le Cartel
全体的にぼんやりした印象。
・『あのとき』の声は、よどみなく機械的に流れてくるものなのではないだろうか??
文節をくぎって、分かりやすく語ることで観客の耳には言葉として残るけれども、あれだけ間延びしていたら、もとから上演に向かないとされる戯曲の何もかもを駄目にしてしまう気がするが・・・。
・『言葉なき行為II』は、躁鬱的な男二人の対比が弱くてこれも面白みに欠ける。
その上、相違を音楽によって表わそうとしているのが現代の演出の逃げとも感じられ、より不快である。行為で表わさなくてどうするんだ?
2006年Bouffes du Nordでのブルック演出は、本当に滑稽で悲愴で、それぞれともかくも生きている二人に愛着を感じたものである。
・『ロッカバイ』も同様、テンポが悪くてとらえどころがない。眠い。
"Encore"と言うたびに近づいてくる工夫もあるが、時間もかかってますます間延びしていた。
②28日、Athénée-Théâtre Louis Jouvetにて『ゴドーを待ちながら』。
演出:Bernard Levy
ヴラジーミル:Gilles Arnbona
エストラゴン:Thierry Bosc
ラッキー:Georges Ser
ポッツォ:Patrick Zimmermann
男の子:Garlan Le Martelot
ここの劇場のGrande Salleはベケット劇を上演するには舞台の奥行きがありすぎるだろうと思っていたが、灰色の壁で舞台を囲んで狭めてあった。
究極の二択。
舞台が広すぎるとおかしい。というのも、一本の道と一本の木があるきりの空間が身上の戯曲であるのに、どこへでも行けそうな様相になってしまう。
かといって、わざわざ区切っても、空間的な境界を感じさせないのが身上の戯曲が台無し。
演出だけでなく、劇場も選んでしまうベケットの気難しさである。
内容的にも演出的にもがんじがらめの状況をどう打破するのか?
(打破する必要はあるのか?)
幕の上がる前、ノスタルジックな音楽とともに、紗幕にテクストを映写。
(これから始まるのは、むかしむかしの物語・・・と言わんばかり。)
ポッツォがマイクを持つ。
ラッキーにスポットライトが当たる。
ひとつひとつの単語をゆっくり発音して、かの狂乱のモノローグをきちんと聴かせつつ、笑いをとる。
(娯楽番組の司会者&出演者としてのポッツォとラッキー)
蹴る、投げる、転ぶ、などの行為には全てマイクを通した効果音がはいる。(不快。)
ベルナール・レヴィの試みは、ベケットを古典文学として過去へ追いやることなんだろうか。
『ゴドー』をtélé-réalitéにしてしまうことで得られるものって何だ?
果たして現代演劇はそうすることでベケット演劇を乗り越えられるのか?
ベケットを理解させる上演をする、ということに意味はあるのか?
滑稽でもの哀しく、何だかわからないものをそのまま劇場に提出したのがベケットではないのか。
・・・あるいはアテネ劇場でゴドーを観る、ということ自体が完全に間違っているとも思う。
①21日、パリ日本文化会館にて。
舞踏との二本立てで『あのとき』、『言葉なき行為II』、『ロッカバイ』。
演出:Philippe Lanton
振付:Katsura Kan (桂勘)
出演:Le Cartel
全体的にぼんやりした印象。
・『あのとき』の声は、よどみなく機械的に流れてくるものなのではないだろうか??
文節をくぎって、分かりやすく語ることで観客の耳には言葉として残るけれども、あれだけ間延びしていたら、もとから上演に向かないとされる戯曲の何もかもを駄目にしてしまう気がするが・・・。
・『言葉なき行為II』は、躁鬱的な男二人の対比が弱くてこれも面白みに欠ける。
その上、相違を音楽によって表わそうとしているのが現代の演出の逃げとも感じられ、より不快である。行為で表わさなくてどうするんだ?
2006年Bouffes du Nordでのブルック演出は、本当に滑稽で悲愴で、それぞれともかくも生きている二人に愛着を感じたものである。
・『ロッカバイ』も同様、テンポが悪くてとらえどころがない。眠い。
"Encore"と言うたびに近づいてくる工夫もあるが、時間もかかってますます間延びしていた。
②28日、Athénée-Théâtre Louis Jouvetにて『ゴドーを待ちながら』。
演出:Bernard Levy
ヴラジーミル:Gilles Arnbona
エストラゴン:Thierry Bosc
ラッキー:Georges Ser
ポッツォ:Patrick Zimmermann
男の子:Garlan Le Martelot
ここの劇場のGrande Salleはベケット劇を上演するには舞台の奥行きがありすぎるだろうと思っていたが、灰色の壁で舞台を囲んで狭めてあった。
究極の二択。
舞台が広すぎるとおかしい。というのも、一本の道と一本の木があるきりの空間が身上の戯曲であるのに、どこへでも行けそうな様相になってしまう。
かといって、わざわざ区切っても、空間的な境界を感じさせないのが身上の戯曲が台無し。
演出だけでなく、劇場も選んでしまうベケットの気難しさである。
内容的にも演出的にもがんじがらめの状況をどう打破するのか?
(打破する必要はあるのか?)
幕の上がる前、ノスタルジックな音楽とともに、紗幕にテクストを映写。
(これから始まるのは、むかしむかしの物語・・・と言わんばかり。)
ポッツォがマイクを持つ。
ラッキーにスポットライトが当たる。
ひとつひとつの単語をゆっくり発音して、かの狂乱のモノローグをきちんと聴かせつつ、笑いをとる。
(娯楽番組の司会者&出演者としてのポッツォとラッキー)
蹴る、投げる、転ぶ、などの行為には全てマイクを通した効果音がはいる。(不快。)
ベルナール・レヴィの試みは、ベケットを古典文学として過去へ追いやることなんだろうか。
『ゴドー』をtélé-réalitéにしてしまうことで得られるものって何だ?
果たして現代演劇はそうすることでベケット演劇を乗り越えられるのか?
ベケットを理解させる上演をする、ということに意味はあるのか?
滑稽でもの哀しく、何だかわからないものをそのまま劇場に提出したのがベケットではないのか。
・・・あるいはアテネ劇場でゴドーを観る、ということ自体が完全に間違っているとも思う。
2009/03/28
『繻子の靴』付記
・・・10時間かかるあれほどの上演を、学生料金15ユーロで観られたことに感動しました。
換算しても2000円以内に収まってしまう。
スペイン黄金時代を字義通りに演出した、すべて金ピカの舞台装置(でもハリボテで裏は煤けていることを見せるのが面白い)、オセローさながら嫉妬に燃えるムーア人ドン・カミーユとドーニャ・プルエーズを取り囲む炎の演出、18人という俳優に3人の楽団。
オデオン座はお金があるなあ、と思わずにいられない。
フランスってすごいですね。やはり。
換算しても2000円以内に収まってしまう。
スペイン黄金時代を字義通りに演出した、すべて金ピカの舞台装置(でもハリボテで裏は煤けていることを見せるのが面白い)、オセローさながら嫉妬に燃えるムーア人ドン・カミーユとドーニャ・プルエーズを取り囲む炎の演出、18人という俳優に3人の楽団。
オデオン座はお金があるなあ、と思わずにいられない。
フランスってすごいですね。やはり。
2009/03/27
『繻子の靴』という世界
25日、26日と二夜連続でO. ピィ演出の『繻子の靴・完全版』を観た。
一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。
ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。
世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。
技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。
楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。
『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。
そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。
舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。
"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)
それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。
一夜目4時間、二夜目5時間30分という体力勝負の観劇だったが、週末は丸一日かけて11時間の上演だというから、まるで古代ギリシア人になった気分である。
サンドイッチをたっぷり作って出掛ける演劇というのは、なかなか悪くない。
ポール・クローデルの『繻子の靴』といえば、なにしろ長い、壮大、上演は極めてむずかしいといったことが、本題の愛と信仰心よりも有名なくらいの大作らしいことは知っていたが、実際に観て何がそうさせるのか体感できた。
世界を股にかけて繰り広げられるのは戦争や恋愛といったドラマの主題のみならず、演劇の手法そのものが海を越え時代を越え、この作品に織り込まれている。
ギリシア悲劇、聖体神秘劇(スペイン)、シェークスピア劇(イギリス)、コメディア・デラルテ(イタリア)などの要素が惜しげもなく、そこかしこに散りばめられているので、観客にとって飽きるということはまずない。
が、演出家・俳優サイドにとっては、これほどひとつにまとめるのが難しく、あらゆる技術を要求される戯曲もないのではないか。
ダンスこそないが、長大かつ挿話に富んだ話の成り行きを説明するのはコーラスか、スケッチ(漫才)風の前座、あるいは前口上だし、身体技を披露するような場面もある。
技の冴えてたひと:
①Damien Bigourdan
フニクリ・フニクラを歌いながら登場。普通の俳優さんと思えぬほど響いたバリトン。
この人は、『オレステイア』の時はコロスをやっていた。なるほど。
②Christophe Maltot
スペイン王の玉乗り。アホらしさと技量のほどが渾然一体となって場面が輝いていた。
③Michel Fau
スケッチの王。裸になる必要はないと思うが、この人の人を笑わせる巧さの前には何も言えない。
エリック・ヴィニェ演出の『オセロー』ではイアーゴーを演じていたが、今回のドーニャ・プルエーズの「守護天使」役も、腹黒い感じがして面白い。
超然とした語り口が、おぼっちゃま風の髪型+小太り体系と相まって、腹立たしいほどのずる賢さを表現する。
楽団の生演奏はStéphane Leachの曲、工夫された効果音とともにかなり良かったが、それにひきかえ女性陣の歌唱力がおいついていなかったのが残念すぎる。
『繻子の靴』は場所の移り変わりが激しく、フラッシュバックのように断片的な場面の繋がりがただでさえ理解しづらいのに、現実と妄想の境目もない。
その上にこれだけの装飾をほどこしたら、崩壊するほかないと思う。
そこを信念の一筋で突き通したO. ピィの精神力がすごい。
ノルマルでの講演会の際に、自分の追い求めているのは"l'absolu"であると豪語していたのもうなずけてくる。
強烈な自己顕示主義と感じなくもない、たたみかけるような俗っぽい足し算の演出の中にも、最後にどこか崇高な美しさを感じさせるのは、完璧主義と神に対する謙虚さの為せる業なのだろうか。
下品になるギリギリの線で、しっかり踏みとどまれる品格がある。
彼によれば、カトリックの語源はkatholikos、すなわちuniverselであり、クローデルの普遍性は、信仰それ自体を超えて作品に表れている、という。
舞台・客席・俳優・観客・テキスト・演出・美術・音楽・・・etc. のあらゆる要素、世界が一体化したものが演劇であるのなら、すべてを呑み込むようなこの戯曲の上演は、確かに演劇の真骨頂と言えるのかもしれない。好むと好まざるとにかかわらず。
"Ce projet de théâtre, je ne sais pas trop comment le qualifier.
C'est un théâtre en quelque sorte sphérique..."
(Propos recueilli par Daniel Loayza, Paris, 10 février 2009)
それ自身は完結しているけれども、限界点はない球体。
地球、世界。
”お能はまるいもの”だと言ったのは白州正子だったな・・・
ベケットの『名付けえぬもの』の語り手はしゃべる玉だったな・・・
などと思い起こすと、球形の演劇というのは、言い得て妙だと思えてくる。
2009/03/11
そういえば、リア王
2007年秋、ナンテール市のアマンディエ劇場でLE ROI LEARを観た。
演出は、Jean-François SIVADIER。
面白かったこと、
①木製の舞台が、途中、人の手で分割されてばらばらの舞台を作りだし、その上を俳優があぶなっかしげに動き回る。
そのほかには何もないシンプルな舞台装置だが、土地分割をもとに始まったリアの悲劇が裏打ちされて、うまい。しかも利便がいい。
②コーディーリア演じる女優のNorah Kriefが、発狂寸前のリアの旅路を支える道化役も演じている。
舞台上で道化服を脱ぐと、ドレスを纏った王の娘となって父を迷いから覚ます。
なにしろ可愛らしい道化だったので、ほほえましくも感動的である。
今回の主役は、”無”をとりまくコーディーリア×道化だったらしく、パンフレットにはアンリ・ミショーの詩が引用されている。
Un jour.
Un jour, bientôt peut-être.
Un jour j'arracherai l'ancre qui tient mon navire loin des mers.
Avec la sorte de courage qu'il faut être rien et rien que rien,
je lâcherai ce qui paraissait m'être indissolubrement proche.
Je le trancherai, je le renverserai, je le romprai, je le ferai dégringoler.
D'un coup égorgeant ma misérable pudeur, mes misérables combinaisons et enchaînements de "fil en aiguille".
Vidé de l'abcès d'être quelqu'un, je boirai à nouveau l'espace nourricier.
A coup de ridicules, de déchéances (qu'est-ce que la déchéance?),
par éclatement, par vide, par une totale dissipation-dérision-purgation,
j'expulserai de moi la forme qu'on croyait si bien attachée, composée,
coordonnée, assortie à mon entourage et à mes semblables, si dignes,
si dignes, mes semblables.
Réduit à une humilité de catastrophe, à un nivellement parfait comme après une intense trouille.
Ramené au-dessous de toute mesure à mon rang réel, au rang infime que je ne sais quelle idée-ambition m'avait fait déserté.
Anéanti quant à la hauteur, quant à l'estime.
Perdu en un endroit lointain (ou même pas), sans nom, sans identité.
CLOWN, abattant dans la risée, dans le grotesque, dans l'esclaffement,
le sens que contre toute lumière je m'étais fait de mon importance.
Je plongerai.
Sans bourse dans l'infini-esprit sous-jacent ouvert à tous, ouvert moi-même à une nouvelle incroyable rosée
A force d'être nul
et ras...
et risible...
・・・出典が書いてない。探そう。
2008年夏の『オレステイア』(O. ピィ演出)では、オレストの父アガメムノン演じるPhilippe Girardが、アテナの神殿でオレストを擁護するアポロンも演じていた。
こういうのはよくある演出なのかもしれないが、演出の意図が明快で分かりやすく、気づいた瞬間に、にっこりできるので楽しい。
演出は、Jean-François SIVADIER。
面白かったこと、
①木製の舞台が、途中、人の手で分割されてばらばらの舞台を作りだし、その上を俳優があぶなっかしげに動き回る。
そのほかには何もないシンプルな舞台装置だが、土地分割をもとに始まったリアの悲劇が裏打ちされて、うまい。しかも利便がいい。
②コーディーリア演じる女優のNorah Kriefが、発狂寸前のリアの旅路を支える道化役も演じている。
舞台上で道化服を脱ぐと、ドレスを纏った王の娘となって父を迷いから覚ます。
なにしろ可愛らしい道化だったので、ほほえましくも感動的である。
今回の主役は、”無”をとりまくコーディーリア×道化だったらしく、パンフレットにはアンリ・ミショーの詩が引用されている。
Un jour.
Un jour, bientôt peut-être.
Un jour j'arracherai l'ancre qui tient mon navire loin des mers.
Avec la sorte de courage qu'il faut être rien et rien que rien,
je lâcherai ce qui paraissait m'être indissolubrement proche.
Je le trancherai, je le renverserai, je le romprai, je le ferai dégringoler.
D'un coup égorgeant ma misérable pudeur, mes misérables combinaisons et enchaînements de "fil en aiguille".
Vidé de l'abcès d'être quelqu'un, je boirai à nouveau l'espace nourricier.
A coup de ridicules, de déchéances (qu'est-ce que la déchéance?),
par éclatement, par vide, par une totale dissipation-dérision-purgation,
j'expulserai de moi la forme qu'on croyait si bien attachée, composée,
coordonnée, assortie à mon entourage et à mes semblables, si dignes,
si dignes, mes semblables.
Réduit à une humilité de catastrophe, à un nivellement parfait comme après une intense trouille.
Ramené au-dessous de toute mesure à mon rang réel, au rang infime que je ne sais quelle idée-ambition m'avait fait déserté.
Anéanti quant à la hauteur, quant à l'estime.
Perdu en un endroit lointain (ou même pas), sans nom, sans identité.
CLOWN, abattant dans la risée, dans le grotesque, dans l'esclaffement,
le sens que contre toute lumière je m'étais fait de mon importance.
Je plongerai.
Sans bourse dans l'infini-esprit sous-jacent ouvert à tous, ouvert moi-même à une nouvelle incroyable rosée
A force d'être nul
et ras...
et risible...
・・・出典が書いてない。探そう。
2008年夏の『オレステイア』(O. ピィ演出)では、オレストの父アガメムノン演じるPhilippe Girardが、アテナの神殿でオレストを擁護するアポロンも演じていた。
こういうのはよくある演出なのかもしれないが、演出の意図が明快で分かりやすく、気づいた瞬間に、にっこりできるので楽しい。
2009/03/07
F/T
3月5日、にしすがも創造舎にて、高山明の演出で『雲。家。』を観る。
東京都文化発信プロジェクトの一環、Festival/Tokyoという舞台芸術祭のための再演。
2004年ノーベル賞を受賞したオーストリア人作家Elfriede Jelinekの戯曲。
Port Bの高山明は、同時に上演(?)するツアー・パフォーマンス『サンシャイン63』を絡ませ、日本独自の問題を浮き彫りにしようと試みる。
池袋のサンシャイン60ビルがある場所は、いわゆる巣鴨プリズン跡地。
東条英機をはじめとする第二次大戦の戦犯が処刑された場所である。
保守政治、ナショナリズムを痛烈に批判したイェリネクのテクストに重ねて、戦後日本の行方をさがす、といったところだろうか。
舞台は、インスタレーションを得意とする高山明ならでは、なのだろうか、暗く冷たく、美しい。
本来ありもしないビルの3階層(サンシャイン63-60=3)が紗幕の向こうにそびえ、「わたしたちは・・・わたしたちは・・・」と百篇もつぶやきながら女の亡霊が行ったり来たり。
時間をかけて、前舞台まで下りてくる。
幽霊然とした女が足を引きずり右往左往する姿が、サミュエル・ベケットの『あしおと』を彷彿とさせる。
というか、すんごく似ている。
ぼろ服がぶらさがった舞台で女優は「わたしたち」を観客に託すように、一時紗幕の奥へ退場。
紗幕は映写スクリーンとなって、巣鴨プリズンを知らないという現代の若者の晴れやかな無責任、健全なる無知を映し出す。
「母なる大地」に眠る亡霊たちとの断絶。
次いでサンシャイン60の遠景、近景、コーラス、などが次々と映されるけれど、ここは映像に頼りすぎて説明が不足している感がいなめないが、そう思う一方で、既に起きたこと・現在起こっていることの狭間にあるあらゆる矛盾が、理解されることなく、纏められてしまうことなく共存しているという実情をそのまま突きつけられたという感覚がある。
気になったことはと言えば、
①観客席が壁のように見下ろす位置にあること。
この劇のコンセプトでいくと、観客は見下ろす側、権力、傍観、無関心の立場に立たされることになる。
高山明×飴屋法水のポストトークでも話題にのぼり、飴屋はこの眺望を受け入れがたい、という感想。
見下ろす、ということを批判的に見ているはずの作品が、観客をどちらにいればいいのか分からないという立場においやるのはまずいのではないか。
問題を突き付けるのはいい、が、いまいち、演出側がこのへんの視点をどう定めていたのかわからない。逆にナショナリズムを煽っているような錯覚を覚える瞬間さえある。
これはまずいんじゃないか?
②ことばがとらえにくく、単調にすぎる。
”声(ことば=音楽)”の演劇であることは分かるけれども、そのわりにいろいろ説明しているのでなんだかもったいない。あれだけの分量のモノローグを詠じきった暁子猫はすごいのだが、いかんせん単調さの中にも味がないので、とっかかりがない。
「わたしたちは、わたしたちは、わたしたちは、ここに、いる。」
もういいよ、それ、という程までに繰り返されるこのことばは、とりあえず家に帰るまで脳裏にこだまする。
F/Tは、3月29日まで。他にも”異色”が売り文句になるような面白い作品が満載。
目が覚める思いがするので、行くべきです。
と思いつつ、パリに戻る。
東京都文化発信プロジェクトの一環、Festival/Tokyoという舞台芸術祭のための再演。
2004年ノーベル賞を受賞したオーストリア人作家Elfriede Jelinekの戯曲。
Port Bの高山明は、同時に上演(?)するツアー・パフォーマンス『サンシャイン63』を絡ませ、日本独自の問題を浮き彫りにしようと試みる。
池袋のサンシャイン60ビルがある場所は、いわゆる巣鴨プリズン跡地。
東条英機をはじめとする第二次大戦の戦犯が処刑された場所である。
保守政治、ナショナリズムを痛烈に批判したイェリネクのテクストに重ねて、戦後日本の行方をさがす、といったところだろうか。
舞台は、インスタレーションを得意とする高山明ならでは、なのだろうか、暗く冷たく、美しい。
本来ありもしないビルの3階層(サンシャイン63-60=3)が紗幕の向こうにそびえ、「わたしたちは・・・わたしたちは・・・」と百篇もつぶやきながら女の亡霊が行ったり来たり。
時間をかけて、前舞台まで下りてくる。
幽霊然とした女が足を引きずり右往左往する姿が、サミュエル・ベケットの『あしおと』を彷彿とさせる。
というか、すんごく似ている。
ぼろ服がぶらさがった舞台で女優は「わたしたち」を観客に託すように、一時紗幕の奥へ退場。
紗幕は映写スクリーンとなって、巣鴨プリズンを知らないという現代の若者の晴れやかな無責任、健全なる無知を映し出す。
「母なる大地」に眠る亡霊たちとの断絶。
次いでサンシャイン60の遠景、近景、コーラス、などが次々と映されるけれど、ここは映像に頼りすぎて説明が不足している感がいなめないが、そう思う一方で、既に起きたこと・現在起こっていることの狭間にあるあらゆる矛盾が、理解されることなく、纏められてしまうことなく共存しているという実情をそのまま突きつけられたという感覚がある。
気になったことはと言えば、
①観客席が壁のように見下ろす位置にあること。
この劇のコンセプトでいくと、観客は見下ろす側、権力、傍観、無関心の立場に立たされることになる。
高山明×飴屋法水のポストトークでも話題にのぼり、飴屋はこの眺望を受け入れがたい、という感想。
見下ろす、ということを批判的に見ているはずの作品が、観客をどちらにいればいいのか分からないという立場においやるのはまずいのではないか。
問題を突き付けるのはいい、が、いまいち、演出側がこのへんの視点をどう定めていたのかわからない。逆にナショナリズムを煽っているような錯覚を覚える瞬間さえある。
これはまずいんじゃないか?
②ことばがとらえにくく、単調にすぎる。
”声(ことば=音楽)”の演劇であることは分かるけれども、そのわりにいろいろ説明しているのでなんだかもったいない。あれだけの分量のモノローグを詠じきった暁子猫はすごいのだが、いかんせん単調さの中にも味がないので、とっかかりがない。
「わたしたちは、わたしたちは、わたしたちは、ここに、いる。」
もういいよ、それ、という程までに繰り返されるこのことばは、とりあえず家に帰るまで脳裏にこだまする。
F/Tは、3月29日まで。他にも”異色”が売り文句になるような面白い作品が満載。
目が覚める思いがするので、行くべきです。
と思いつつ、パリに戻る。
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